5月8日(日) 復活節第4主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 546
主の祈り
交読詩編 詩編24篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第1章6~11節
説 教 「キリストの証人となる」
賛 美 516
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
主イエスは十字架で死なれた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話されました(使徒1:3)。そこで、使徒たちは集まって主イエスに言いました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。使徒たち〔弟子たち〕からこのような問いが出されたのは当然かもしれません。
ルカ福音書第24章13節以下に、2人の弟子がエマオという村に行く途中、復活の主イエスが彼らに近づき同伴してくださった記事があります。弟子たちは初めイエスだと気づかず、旅人だと思い、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(ルカ24:21)と話しました。「あの方」とはイエスのことです。
今回、説教の黙想をしていて、弟子たちのイエスへの問いの中に、人間の根源的な願い、つまり「解放されたい。本当にのびのびと生きていきたい」という願いがあるのではないか、と思いました。少し想像力を働かせれば分かります。自分たちの国が外国人によって支配されているとは、屈辱的なことです。現代世界でも、隣の国が武力で攻めて来て支配しようとしている現実があります。たとえ武器を使われていなくても、様々な力で抑圧されているということはあります。子供でもそうです。子供は大人に従わざるを得ません。私が子供の時代より、今の子供たちは生きにくいと思います。いのちは、輝いてのびのびと生きたいのではないでしょうか。
主イエスは弟子たちの問いを否定なさいませんでしたが、父なる神が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、弟子たちが知る必要はないのだ、とおっしゃいました(7節)。ここでの「時」とは原文ではギリシア語「クロノス」(時計で刻まれるとき)の複数形、「時期」は「カイロス」(チャンス、機会、特別なとき)の複数形です。すべての時も時期も、人ではなく、父なる神の御手にあり、神の御意志のままにことをなさいます。私たちはそれを受け入れるばかりです。さらに主イエスは弟子たちに約束を告げられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。国を建て直される神の働きは、弟子たちに聖霊を送り、力を与えて、弟子たちを派遣することによって果たされるのです。弟子たちは神の道具として用いられるのです。
「ユダヤとサマリアの全土で」とありますが、当時、ユダヤとサマリアは敵対関係にありました。主イエスのお言葉を聞いた弟子たちは皆ユダヤ人です。ですから、敵の中に遣わされていくことを意味します。ユダヤとサマリアは同じ先祖を持つ民族ですから、本来きょうだい同士と言ってもいいのですが、様々な経緯から敵対関係になっていました。しかし、弟子たちが遣わされ、サマリアにおいてイエスがキリストであると信じる人が起されれば、キリスト者として共に生きることができます。和解が生まれます。平和が実現します。ですから「ユダヤとサマリアの全土で」には、今日的意義があるのです。本来きょうだいであるはずなのに、敵対関係となっている現実はいくらでもあります。そこにイエスの弟子たちは遣わされて、和解の福音をもたらすのです。
主イエスは天に上げられて、弟子たちの目から見えなくなりました。ルカ福音書25章50~51節にも昇天の出来事がありますが、そこにはイエスが両手を上げて弟子たちを祝福した姿のままで天に上げられた、とあります。天におられる父なる神の右の座で、主イエスは私たちのために常に執り成してくださっています。