5月22日(日) 復活節第6主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   409
主の祈り
交読詩編  詩編115篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章17節
説  教  「貪欲は偶像礼拝」
        〔十戒による説教:第十戒〕
賛  美   444
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 第10の戒めは貪欲が問題になっています。17節「隣人の家を欲してはならない」は以前使っていた口語訳聖書では「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」でした。貪(むさぼ)りの罪を問題にしています。
 十戒による説教では毎回、戒めに先立つ神の言葉が大切だと申しております。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)。十戒は、この主なる神によって救い出され、自由にされた民の生きるべき道です。キリストの教会に生きる私たちには、この神は、イエス・キリストの父なる神であられる。私たちは、キリストによって、罪と死の奴隷状態から救い出された神の民です。キリストに救われた者の生き方として十戒を受けとめます。
 その関連で、コロサイの信徒への手紙第3章5節を読みます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。「貪欲は偶像礼拝」とは、貪欲に支配されると、神を神として生きられなくなり、神に背くようになってしまうということです。この直前に「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ3:1)と語られています。私たちは地上的なものを求めないで、上にあるものを求めて生きるのです。
 私たちがどんなに貪欲の罪に傾きやすいか、ダビデの姿を通して見たいと思います。サムエル下第11章・12章を読みます。ダビデ王は部下たちが戦いに出ている間、部下ウリヤの妻と知りながら、バト・シェバと関係を持ちました。彼女は身ごもり、それを知ったダビデは、ウリヤを戦いから呼び戻し「妻のところで過ごせ」と言いました。忠実なウリヤは「自分だけがそのようなことはできない」と辞退しました。そこでダビデは「戦争の最前線にウリヤを出させて戦死させよ」と将軍に命令を出し、ウリヤは戦死しました。その後ダビデはバト・シェバを自分の妻にしました。主は、預言者ナタンをダビデに遣わして、ダビデの罪を告発されました。ナタンはまずダビデに、豊かな富める男が貧しい男の一匹の大切な羊を奪い取ったというたとえ話をしました。すると、ダビデは「そんな無慈悲なことをした男は死罪だ」と言いました。そこでナタンはダビデに向かって言いました。「その男はあなただ。…ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」(サムエル下12:7、9)。私たちはダビデ同様、他の人がどんなにひどい罪を犯したかは分かるのです。しかし自分の罪には気がつかない。以前この箇所を読んだとき、「不足なら、何であれ加えたであろう」(サムエル下12:8)の御言葉に、主なる神は「足りなければ、わたしが満たそう」と言ってくださる御方なのだと、感動しました。その恵みの神を見失い、足りないものがあるかのようにつぶやき、他の人をうらやんだり、ねたんだりしていないでしょうか。ダビデは王の立場で力を振るいましたが、私たちはそんな立場にいないだけのことで、貪欲こそ罪の根です。
 貪欲に打ち勝つ道はどこにあるか。コロサイ3章の言葉を先に読みましたが、もう1箇所、使徒言行録第20章を読みます。「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。…あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(使徒20:33、35)。与える幸いに生きることです。この祝福にとどまるとき、貪欲ではなく神の支配に生かされます。