6月19日(日) 聖霊降臨節第3主日・父の日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 546
主の祈り
交読詩編 詩編5篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第2章25~36節
説 教 「命に至る道がある」
賛 美 153
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
主イエスの弟子たちに聖霊が降り、彼らは他の国の言葉で福音を語りました。人々は驚きましたが、何が起こったのか分かりませんでした。そこでペトロは立ち上がり、これは預言者ヨエルを通して神が約束しておられたことである、と説教を始めます(使徒2:16以下)。ペトロは、イエスこそ神から遣わされた方であり、イエスは十字架で死んだけれども、神によって復活させられ、今も生きておられる、と説教しました。
今日はこのペトロの説教の続きです。ペトロは、旧約聖書の詩編を引用して、ダビデ〔イスラエルの2代めの王〕がすでにキリストの復活を預言していた、と語ります。使徒言行録第2章25節から28節までは、詩編第16篇8節から11節の引用です。引用と言いましても、今、私たちが聖書を開いて読むようなことではありません。詩編は礼拝で歌われていました。ユダヤ人の共同体に生きていれば、人々は体に沁み込むほどに詩編に親しんでいました。ペトロは幼いときから聞いて覚えていたダビデの詩編を語ったのです。しかも新しく語ったのです。
「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(27節)と、ペトロは詩編を引用しましたが、「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにある」(29節)と続けました。ダビデは葬られており、その墓も皆が知っていることなのです。それならば神が「聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(27節)とは、ダビデ自身のことではないはずです。ダビデは神によってキリストの復活について前もって知らされて、そのことを預言して語ったのだというのです(31節)。
ペトロが、このようにダビデの詩編に目が開かれたのは、主イエスが復活されたからです。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(32~33節)。ペトロ自身が聖霊によって、ダビデがキリストの復活を預言していたことに目が開かれ、今起こっている出来事の意味を悟らされ、驚きながら説教をしていたと思います。
「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」(28節)。「命に至る道」とは主イエスご自身です。すべての人のために命に至る道が開かれたのです。
「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」(25節)とダビデは歌い、ペトロはダビデの信仰に心を合わせて語りました。私たちは目の前に何を見ているのでしょうか。死でしょうか。病でしょうか。課題でしょうか。あなたの右にはだれが共にいてくださるのでしょうか。わたしたちは信仰によって、主イエスを見るようにして生きることができます。主イエスがわたしたち一人ひとりを訪れてくださったと信じるからこそ、「主がわたしの右におられる」と語れるのです。聖霊は地上で働く主イエスの霊です。聖霊が注がれるとは、主イエスが聖霊として来てくださることです。
5月末、私の従妹から連絡があり、長く入院していた叔母が、「もうすぐ」とのことで、面会に行きました。私は叔母の耳元で詩編23篇を朗読しました。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23:4)。叔母はキリスト者です。最期の時でも主を目の前に見ることができたと信じて、主の御手に委ねました。
ペトロは、「兄弟たち」(29節)と呼びかけ、神はイエスを主とし、メシア(キリスト)となさったと語りました(36節)。