7月10日(日) 聖霊降臨節第6主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   446
主の祈り
交読詩編  詩編71:1~8
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第3章1~16節
説  教  「立ち上がり、歩きなさい」
賛  美   458
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 今日の聖書の箇所では「見る」という言葉が何度も出てまいります。まずそこに心を留めて読んでいきたいと思います。
 主イエス・キリストの弟子のペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に合わせてエルサレム神殿に来た時、生まれつき足の不自由な男の人と出会いました。この人は「神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日…神殿の門のそばに置いてもらって」いました(2節)。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞」いました(3節)。恐らく、この人はいつものように「お恵みください」と言ったのでしょう。「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』」と言いました(4節)。この人は「何かもらえると思って二人を見つめて」いました(5節)。するとペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。ペトロがこの人の右手を取って立ち上がらせると、足がしっかりして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行きました(7~8節)。「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見」(9節)、驚きました。足が不自由であったこの人は汚れた人と見なされていたので、神殿に入ることは許されていませんでした。この人は、願いに勝るものが与えられ、足だけでなく、存在そのものがいやされて、心から神をほめたたえたのだと思います。
 ペトロとヨハネがこの人に注いだまなざしは、キリストのまなざしと同じだと思うのです。それは、彼らが主イエスのまなざしの中で、いやされ、立ち上がらせていただいた経験をしたからです。主イエスがユダヤ当局に逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれた時、ペトロは屋敷の中庭まで行きました。しかし、人々に問い詰められると「イエスを知らない」と言いました。ルカ福音書だけが、主イエスのまなざしを描いています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した」(ルカ22:61)。それは、怒りでも、責めるのでもなく、「分かっていたよ」というまなざしだったのではないでしょうか。主イエスは、ペトロ自身も知らなかった弱いペトロを御存じで、彼の罪を負ってくださいました。復活された主イエスは、ペトロを訪れ、再び弟子として立たせてくださいます(ヨハネ21:15以下)。主イエスにどこまでも赦されて、愛されていることを知らされ、聖霊を受けたペトロは、門のところに置かれていたこの人に必要なのは一時のお金ではなく、イエスの御名によって存在そのものがいやされることだと見抜いたのでしょう。
 驚いた人々が集まってきたので、ペトロは説教を始めました。「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。…あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(12、16節)。人々が正しく物事を見るよう、ペトロは語りました。
 ペトロは説教の中で、主イエス・キリストのことを「僕イエス」(13節)と呼んでいます。主なる神の僕といえば、イザヤ書第53章の「苦難の僕」を思い起こします。すべての人の背きと咎のために打ち砕かれ、罪を負った主の僕はイエス・キリストご自身でありました。さらにペトロは、主イエスを「命への導き手」(15節)と呼んでいます。私たちを救うために僕として仕えてくださり、復活の命へと導き入れてくださる主イエス・キリスト。その御名を呼ぶことが許されています。



後日アップします