7月24日(日) 聖霊降臨節第8主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   162
主の祈り
交読詩編  詩編138:11~18
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第6章5~9節
説  教  「こう祈りなさい」
        〔主の祈りによる説教 2〕
賛  美   510
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「主の祈り」を学ぶとはどういうことでしょうか。まだ洗礼を受けていない人にとっては、信仰生活の入門となります。洗礼を受けた人にとっては、信仰の足腰を鍛え、キリストの弟子として整えていただくことです。先月の「主の祈りによる説教」では、ルカによる福音書第11章を読みましたが、本日はマタイによる福音書第6章の聖書の言葉を読みました。こちらの祈りが、今、私たちが「主の祈り」と呼んでいる祈りとほぼ同じです。
 マタイによる福音書第5章から第7章までは「山上の説教」と呼ばれています。本日の聖書はその一節です。この文脈も心に留めて、本日の聖書箇所に耳を傾けたいと思います。
 マタイ福音書第6章1~18節では、当時の信仰生活において大切な業とされていた施し・祈り・断食において、主イエスは偽善を戒めておられます。ユダヤの共同体では、施し、祈り、断食をしっかりと守っていれば、信仰生活が成り立つと考えられていました。問題は、どこでそれを確認するか、です。主イエスの時代には、他者から見られることによって、自他共に信仰の業を守っていることを確認するようになっていました。ですから「人の前で善行を」(マタイ6:1)し、「人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈り」(5節)、「断食しているのを人に見てもらおう」(マタイ6:16)ということになっておりました。主イエスのお言葉は当時の人々に、思いがけない響きを立てたと思います。
 「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)。あなたは、ただ独り神の前に立って祈るように、主イエスは告げられました。その神は「隠れたことを見ておられるあなたの父」(6節)であられます。そこで、森有正先生(哲学者・フランス文学者。故人)の言葉を紹介させていただきます。
 “人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅(いちぐう)というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。・・・人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。・・・人の前でいくら隠しても、それは自分そのものですからそれを自分は忘れることはできない。しかし、そこで私どもは神様にお会いする。そこで、神様にお会いし名前を呼ぶということは、同時に自分の道を発見することと一つにつながっている。”(「土の器に」所収「アブラハムの信仰」)
 私たちと出会ってくださる神は「あなたの父」(6節)であり「あなたがたの父」(8節)であると、主イエスは示してくださいました。だから「天におられる私たちの父よ」(9節)と神を呼ぶことが許されています。本来、神を「父よ」と呼ぶことができるのは、神の御子である主イエス・キリストのみです。主イエスが、ご自分と同じ立場へ、私たちを招き入れてくださいました。そのことが実現するためには、主イエスが私たち人間の罪を負って、十字架に死なれ、神が主イエスを復活させてくださる、十字架と復活の救いがなければなりませんでした。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。神を信じる前から、私たちは前もって神に選ばれていました。それだけでなく、神は私たちを御子の姿に似たものにしよう、と決めておられました。ですから、主の祈りを祈る時、私たちは御子の姿に似たものとされるのです。