7月31日(日) 聖霊降臨節第9主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 226
主の祈り
交読詩編 詩編1篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ペトロの手紙二第1章3~11節
説 教 「神の本性にあずかる」
(説教者 島隆三師)
賛 美 522
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「神の本性にあずかる」 東京聖書学校神学教師 島隆三
ペトロの手紙二は、いくつかの主題があるが、第1章に一番大事で基本的なことが記されている。それは、一言で言えば、「キリスト者として成長しなさい」ということです。今日の説教題「神の本性にあずかる」(4節)の、「神の本性」とは、何よりも神のきよさ(ホーリネス)と愛ということ。この点においても成長する者であれということです。
何事も、努力しないで成長することは望めない。信仰の世界も同様です。だから、5節では「あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と勧める。信仰から愛まで8つの要素(神の本性に通じる)に成長することが大事だと言う。これと似ている聖句がある。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22)。大事なことは、これが聖霊の結ぶ実であること、私たちの努力だけでは、これらの実を結ぶことはできないということです。それはペトロの手紙においても同様です。ここに祈りが必須のことになることが、よくおわかりになるでしょう。先週も、金田佐久子先生から「主の祈り」の説教があったが、主の祈りの奥行は深い。「主の祈りを説明してください」と言われて、説明できるキリスト者は何人いるだろう。主の祈りに限らず、私たちにわかることはほんの僅かです。だから、信仰は、祈りに始まり、祈りに終わる。つまり、究極の鍵を握っておられるのは神であって、私たちではない。そのことを知っているのがキリスト者です。
マタイ7章では「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と勧めて、結論的に「求める者に良い物をくださる」(11節)。ルカ11章では「聖霊を与えてくださる」(13節)、つまり、最も良いものは聖霊だということです。聖霊を求めましょう。
昨日から、アシュラムが開かれて、御言葉に聴き、共に祈ってきたが、この「聖霊を求めること」こそ、アシュラムの中心であると昨日も申し上げた。
3節を見ると、「主イエスは、…命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えてくださいました」。その通りです。すべての良きものは主イエスからすでに私たちに与えられているのです。これを、神様100パーセントと呼びましょう。神様が100パーセントなら、人間の出る幕はないはずです。しかし、聖書はそう言っているでしょうか。
老牧師がかつてこんなことを言われたことがある。ある時、牧師たち何人かが集まって、徹夜の祈祷会をすることになった。そして、皆覚悟を決めて祈り出した。しかし、夜は長い。簡単に朝は来ない、みんな疲れ切ってしまった。その時、ある教師が「ここはイエス様にお任せ申して、我々は休もうではないか」と、この「イエス様にお任せ申して」というのが何ともユーモラスで忘れられない。
我々の信仰生活には、確かにそういう時がある。どうすることもできない難局に直面して、祈る気力もなくなる時がある。そういう時にどうしますか。「ここはイエス様にお任せ申して」というのは信仰の知恵ではないか。
しかし、いつもイエス様にお任せ申して、自分は何もしないとすれば、それは怠惰か不忠実でしょう。そこがジョン・ウェスレーは、バランスが取れているのです。ウェスレーは、「神のアクション、人間のリアクション」としばしば言った。神様が私たちに働きかけてくださる。これが神のアクションです。これに私たちは、どう応えるか、それが人間のリアクションです。これが信仰生活だというのです。
10節を見てください。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものにするように、いっそう努めなさい」。神の召し、神の選びは、絶対です。神様100パーセントです。しかし、私たちは、その神の召し、神の選びを確かなものにすることができる、いや、そうするように呼びかけられている。これが神のアクションに対する私たちのリアクションです。これを強調しておられたのは、中島恵美子牧師です。同師は中島誠牧師と共に、戦後の大阪西野田教会の復興に全力で取り組み、誠牧師は過労で肝硬変に倒れ、43歳の若さで召天された。恵美子牧師は、誠牧師のことを思いつつ、このことを言われたのでしょう。今日はこのペトロの手紙二第1章10節だけでも覚えてお帰りいただきたいと思います。
※注 ジョン・ウェスレー…18世紀の英国国教会司祭。英国の社会を変えたと言われる伝道者。
後日アップします