8月7日(日) 聖霊降臨節第10主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 280
主の祈り
交読詩編 詩編118:19~29
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第4章1~22節
説 教 「救いは確かにある」
賛 美 474
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
ペトロとヨハネが、ユダヤ当局の指導者たちに取り囲まれて取り調べを受けているにもかかわらず、聖霊に満たされて堂々と福音を語っている姿に驚きます。
ペトロとヨハネが民衆に、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていたため、ユダヤ当局の指導者たちがいらだち(2節)、取り調べるために2人を捕らえたのでした。
ペトロの答弁の言葉に「あなたがたが十字架につけて殺し」(10節)とありますが、その通り、ほんの少し前に、ユダヤ当局の人々は主イエスを殺そうと企み、ローマ総督ピラトに働きかけて、十字架に追いやったのです。自分たちが敵視していたナザレのイエスを亡き者にし、「これで終わりだ」と思ったことでしょう。ところがイエスの弟子たちが「イエスは復活して生きておられる」と宣べ伝え、信じた者たちの群れが男だけで5千人ほどになっていたのですから(4節)、彼らにとって、それは、とうてい見過ごすことなどできない、腹立たしい事態でありました。「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」(1節)、「議員、長老、律法学者たち…大祭司一族」(5~6節)は、神殿の秩序を守り、運営を任されている人々でした。実際はローマの権力にあやかって、自分たちの地位の安泰を図っている、裕福な人々でした。今も昔も権力者は、自分の立場を守るためなら何でもすることを、私たちは知っています。
翌日、彼らは使徒たち―ペトロとヨハネ―を真ん中に立たせ、「『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問」しました(7節)。
ペトロは聖霊に満たされて言いました。「民の議員、また長老の方々」(8節)と敬意をもって呼びかけ、生まれつき足の不自由であった「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)と力強く宣言しました。
続いて「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」と、イエス・キリストが捨てられることも、神の御計画であったと、詩編118篇22節を引用して語りました。
さらに「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)とはっきりと福音を語りました。
7月30日・31日の西川口教会アシュラムで、ペトロの手紙二の御言葉をじっくりと静聴しました。私の心に響いた御言葉の一つは「堅固な足場を失わないように注意しなさい」(ペトロ二3:17)です。キリストの教会には、既に堅固な足場が与えられています。人間ではなく神が堅固にしてくださる足場があります。この関連で、マタイ福音書の主イエスの言葉も思い起こされました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)。この「岩」とは、「イエスがキリストである」との信仰告白です。この信仰に立つとき、死の力も教会を打ち倒すことができないと、主イエスは約束されました。その保証は、主イエスが死から復活された出来事にあります。十字架と復活の救いにあります。
本日の使徒言行録のペトロの福音の宣言も、この確かな救いに根差して語られています。ペトロは自分たちを尋問する人々を敵視してはいません。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい」(10節)と、ただ一つの確かな救いに入るように招いているのです。私たちもこの救いに招かれているのです。