8月14日(日) 聖霊降臨節第11主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 352
主の祈り
交読詩編 詩編2篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第4章23~31節
説 教 「心を一つにして祈る」
賛 美 405
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
ペトロとヨハネは、取り調べのための拘束から釈放されると「仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話し」ました(23節)。「仲間」とは、使徒ばかりでなく、主イエスの弟子となった者たちです。私たちも互いに教会の仲間です。ここで「仲間のところ」とは、おそらくエルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」(使徒1:13)であると思われます。使徒言行録第1章には、弟子たちは、主イエス・キリストが約束してくださった聖霊の到来を待ちながら、この家で、心を合わせて祈っている姿が描かれていました。主イエスの約束通り聖霊を注がれて、なお祈るために集まっていたことでしょう。ペトロとヨハネがユダヤ当局に捕らえられたとの知らせが届いてからも、教会の仲間たちは、ペトロとヨハネの救いを祈っていたと思います。ペトロとヨハネは、ユダヤ当局から取り調べを受けましたが、「自分たちは2人きりではない。きっと仲間が祈ってくれている」と信じていたに違いありません。離れていても、互いに祈り合う主の弟子たちでありました。
ペトロとヨハネの報告を「聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて」ました(24節)。教会の仲間たちは、神に向かって声をあげて、祈りました。叫びのようであったのかもしれません。
現在、コロナ禍で、多くの教会が制約を受けています。他の教会の方からは、礼拝で、賛美を声に出して歌わないとか、小声で歌うとか、いろいろなやり方で礼拝をささげています。各教会の判断について言うことはできませんが、声をあげられないのはまことに厳しくつらいことです。一方で、声を上げることが許されているのに、私たちの祈りや賛美の声はどうなのでしょうか。生活の中の会話の方が、賛美や祈りの声よりも生き生きして元気ということはないでしょうか。
初代教会の人々は、神を呼びました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。これは、神を呼ぶとともに、神は「主」であられる、つまり、天地万物を支配しておられるという信仰告白でもあります。ペトロとヨハネが思いがけず逮捕されましたが、主はそのこともご存じでいてくださる。神の摂理を信じる信仰です。
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(29節)を私たちの祈りとできるように祈ります。私だったら「彼らから守ってください」と祈るかもしれませんが、弟子たちはそうではありませんでした。「大胆に」つまり、恐れることなく何でも自由に語ることができることを、祈り求めたのです。
彼らが、主イエス・キリストを「あなたが油を注がれた聖なる僕イエス」(27節)、「聖なる僕イエス」(30節)と呼んでいることにも注目したいと思います。イエス・キリストは、僕として来られ、神の国の福音を告げ知らせ、語られた通りに生き、ご自身の命を献げてくださいました。そのようにして、神と人に仕えてくださいました。ですから、弟子たちは自分たちのことを「あなたの僕たち」(29節)と呼んでいます。神の僕であるイエスに従う弟子たちも、私たちも、神の僕たちです。
さらに「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(30節)と祈りました。
神は「一同の集まっていた場所が揺れ動き」(31節)というしるしで、祈りに応えてくださいました。「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだし」ました(31節)。