8月21日(日) 聖霊降臨節第12主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   483
主の祈り
交読詩編  詩編40:1~7
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第4章32節~第5章11節
説  教  「神を欺くことなく」
賛  美   509
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 わたしたちは、知らず知らずのうちに信仰を心だけのこと、精神的なことに限定してはいないでしょうか。本日の聖書箇所を読むと決してそうではないことが分かります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。…信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された」(32、34~35節)という驚くべき、素晴らしい教会の姿が示されています。
 ある先生が、この出来事を次のように申しておりました。「復活日に死のきずなを打ち破り、五旬祭の日に言葉の障壁を打ち破り、足の不自由な男をいやした力は、今や、私有財産への強い執着から人々を解放したのである」。主イエスを復活させてくださった神の力、聖霊の力は、私たちの財産に対する態度にも働きかけられるのです。
 気をつけて理解したいことですが、財産の共有は、強制ではなく、あくまでも信仰による自発的なものでした。それは、使徒言行録第5章のペトロの言葉から分かります。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(4節)。ですから、初代教会の伝道によって、イエスをキリストと信じて洗礼を受けたとき、財産を差し出すようにと要求されることはなかったのです。献げ物はあくまでも「自分の思いどおり」のことであり、信仰による決断です。昔も今も同じです。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:34)というのは、信仰共同体の中で、一人孤立して困窮する人はいなかったという意味です。皆が配慮し合って暮らしていたのです。
 第5章1~11節の出来事は読む者を厳粛な思いにさせます。アナニアとサフィラの夫婦は、土地を売った代金の一部を手元に残し、残りの代金を「土地を売った代金のすべてです」と言って献げました。偽りを見抜いた使徒ペトロは「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。…あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(4節)と言いました。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶え」(5節)てしまいました。妻のサフィラもペトロに問われ、夫と同様に応えると、ペトロは言いました。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。・・・」(9節)。サフィラもペトロの言葉を聞いた後で、息が絶えました。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れ」(11節)ました。
 所有の問題、物質的な事柄、虚栄心、偽りは、アナニアとサフィラ夫婦が死を招いたことからすれば、決して小さな問題ではなく、生死に関わる事柄なのです。私たちは、アナニアとサフィラが嘘をついたことを理解できるのです。神を畏れない人間にとっては自然なことだからです。私たちが息絶えないでいるのは、ただ神の憐れみによるほかないと信じます。
 30数年前、20代半ばころ、キリスト教系NGOが主催したフィリピンでのワークキャンプに参加したことを思い出します。マニラ郊外で、集会所を建てるお手伝いをしました。日本からの数名参加者の宿泊のため地域の牧師が牧師館を明け渡してくださり、大変驚きました。1泊、地域のご家庭にホームステイをしましたが、薄暗い灯りの下で大盛りのご飯と魚醤(ぎょしょう)の夕食を喜んで提供してくださいました。その家族の父親が自分の部屋を明け渡して私を泊めてくれました。もし自分が逆の立場ならどうだろうかと思います。喜んで分かち合う共同体を体験しました。