8月28日(日) 聖霊降臨節第13主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 361
主の祈り
交読詩編 詩編103:1~13
祈 祷
使徒信条
聖 書 マタイによる福音書第6章5~9節
説 教 「我らの父は天に」
〔主の祈りによる説教 3〕
賛 美 437
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「天におられるわたしたちの父よ」(9節)。本日は、特にこの御言葉に集中します。
歴代誌下第6章にソロモン王が神殿を献げた時の祈りがあります。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。・・・どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」(18、21節)。神は造り主であり、天は被造物です。神は造られた物に納まるお方ではありません。人に対して、神は天を住まいとすると言っておられます。
古代では、地は平らな円板状で、天は半球状で、球面に天体が置かれており、天は何重にもなっていると考えられていました。時代が過ぎ、科学が発達し、人間は技術を駆使し、はるか上空、さらに宇宙飛行士は宇宙空間まで行けるようになりました。そこには神はおられませんでした。世界のどこかに「天」があるのではありません。次元が異なるのです。「天」は信仰の事柄です。
ルカによる福音書第16章19節以下の「金持ちとラザロ」のたとえを読みます。主イエスはしばしば神の国(天の国)を祝宴に例えておられます。ここでもそうです。金持ちの門前で横たわっていた貧しい人ラザロは、死んで、神の国の祝宴にいるアブラハムのすぐそばに、御使いによって連れて行かれました(2節)。金持ちも死に、彼は陰府におり、炎の中でさいなまれていました(23節)。遠くからアブラハムとラザロを見つけた金持ちは、自分のためにラザロを送ってほしいとアブラハムに願います。アブラハムはこう言います。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(26節)。「天」は、大きな淵で隔てられていて、人が自分の力で行き来することは決してできないのです。アブラハムでさえも。このように「天」と「地」には、厳粛な区別があることを、私たちはわきまえているでしょうか。金持ちは、それなら自分の家族が陰府に来ることがないように、ラザロを復活させて家族のもとへ送ってほしいと願いますが、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。…もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(29,31節)と答えました。神の言葉に耳を傾けること。それが「地」にいる私たちの生きるべき道です。
マタイによる福音書第5章に「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(44~45節)とあります。天の父なる神は、分け隔てなく慈しみを注いでくださる御方です。天の父の子となった私たちは、敵を愛すること、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者と」(49節)なるよう求められています。
ローマの信徒への手紙第8章15節「あなたがたは…神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とありますから、狭い意味では、聖霊を受けた人だけが、神を「父よ」と呼べる、と言えます。しかし、私たちが神を信じる前から、神は私たちを分け隔てることなく慈しんでくださいました。私たちのために、「主の祈り」は恵みとして備えらえていました。ですから「わたしたちの父よ」の「わたしたち」には、これから主イエス・キリストを信じる人々、救われるべきすべての人々が含まれるということです。