9月4日(日) 聖霊降臨節第14主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    58
主の祈り
交読詩編  詩編3篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第5章12~42節
説  教  「命の言葉を告げよ」
賛  美   390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 病気をいやしてもらおうと大勢の人々が使徒たちのところに集まり、いやされました(16節)。大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は、使徒たちをねたみ、捕らえて牢に入れました。牢には鍵がかかっていて、番兵がいたにもかかわらず、使徒たちは主の御使いによって連れ出され、牢から出ました。御使いは言いました。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(20節)。使徒たちは神殿の境内で福音を語りました。
 しかし、再びユダヤ当局は怒り、使徒たちを捕らえて最高法院の中に連れていきました。ユダヤ当局は協議の上、「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した」(40節)。このとき、使徒たちは、主の使いに救い出されたように鞭打ちを免れることはありませんでした。ひどく痛めつけられました。しかしそこで使徒たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだのです(41節)。福音の喜びはそれほどまでのものなのです。私たちは人から侮辱されることをうれしくは思いません。使徒たちは、このことが十字架に向かわれた主イエスの後に従ったための辱めであったからこそ喜んだのです。主イエスが、まず、救いのために辱めを受けられたお方でありました。
 命の言葉とは何でしょうか。29節以下です。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(29~32節)。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)。10月第1主日の世界聖餐日に聖餐式を執行することが決まり、聖餐の恵みを新たにしたいと、辻宣道先生の著書「教会生活の処方箋」の第4章「聖餐における共同体」を読み返しました。第4章冒頭に、ヒトラー政権下のドイツで、人に従うより、神に従った教会と牧師を紹介しつつ、こう書いておられます。
 “すべての流れがヒトラーへと向かっているとき、ひとりのお方(イエス・キリスト)によってのみ私たちは一つになると信じた…。国民共同体がなにものにもまさって優先していたとき、聖餐式によって生まれる共同体の方がより確かであるとこの牧師は、断言したのです。またそれを諾とする会衆がおりました。日本の教会はどうだったでしょう。天皇のもとにある共同体より、パンとぶどう酒のもとにおける共同体のほうがはるかに深い、といい得たでしょうか。残念ながらそうではありませんでした。…それほど聖餐によって成り立つ共同体という意識は低かったのです。”
 辻先生のお父様はホーリネス教会の牧師で、太平洋戦争中、治安維持法違反で逮捕され、獄死されました。その経験からもキリストの教会が教会であるとはどういうことかを書いておられます。戦後の教会が安易に戦中の教会の批判はできません。コロナ禍の今、キリストの教会はどうなのか、問われていると思います。
 もう一度、ペトロの説教を聞きましょう。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」(31節)。ペトロは語ります。「主イエス・キリストは、あなたがたを悔い改めさせ、罪を赦すために、神から遣わされた。このキリストのもとに立ち帰っていただきたい。罪の赦しを受けてもらいたい。なぜなら、この方は命の導き手、あなたの救い主なのだから」と。