9月11日(日) 聖霊降臨節第15主日
礼拝順序(敬老祝福礼拝)

黙  祷
賛  美    51
主の祈り
交読詩編  詩編46篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第6章1~7節
説  教  「御言葉をおろそかにせず」
賛  美   543
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「弟子の数が増えてきて」(1節)とあります。使徒言行録では、ここで初めてキリスト者のことを「弟子」と呼んでいます。師は主イエス・キリストです。キリストの言葉を守り、キリストの生き方に倣う弟子。教会は、弟子の群れです。イエスがキリストであると信じる人が与えられ、弟子の数が増えてきました。
 それに伴い困難が生じました。「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(1節)。「ギリシア語を話すユダヤ人」。外国で暮らしていて、パレスチナに戻ってきたユダヤ人です。日本人であっても、外国で生まれ育ったら現地の言葉の方が上手く話せるのと同じことです。「ヘブライ語を話すユダヤ人」とはパレスチナで生まれ育ったユダヤ人です。恐らく初代教会の中に、言葉の違いによるゆるやかなグループがあり、それぞれのグループにやもめがいたのだと思われます。初代教会では、献げられた持ち物や献金で、皆が助け合って暮らし、やもめなどの社会的弱者はそれによって支えられていました。その日々の分配に分け隔てがあったようです。
 共に生きるということは、美しいことばかりではありません。このようなことが教会に起こるのかと言われるかもしれません。けれども私たちは皆、それぞれにいろいろな考え方を持っていて、それがぶつかることもあります。分け隔てがあると感じ、不平が生まれることもあります。
 この困難に、教会はどのように向き合ったのでしょうか。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』」(2節)。「十二人」は12人の使徒たちです。この言葉から使徒たちが日々の分配の奉仕をしていたのだと分かります。けれども限界が来たのです。使徒たちがこれ以上分配の奉仕に携わると、神の言葉の奉仕をおろそかにすることになる。それはあってはならない。「好ましい」とは「喜びとなる」という意味があります。ですから教会が神の喜びとなることが目当てです。
 使徒たちは弟子たち全員を集めて提案をします。「兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」(3節)。使徒たちは、日々の分配の仕事を任せる人を、自分たちで一方的に決めないで、弟子たちの群れの中から奉仕者を選び出すよう提案しました。その任に当たるのは、「“霊”と知恵に満ちた」人です。神のいのちの力である聖霊に満たされ、神の霊の賜物である知恵に満ちており、他者のために、問題の解決に当たることのできる人です。さらに「評判の良い人」です。「自分ができます。自分がやりたい」というのではなく、他の人から証される人です。
 奉仕者に日々の分配の仕事を委ねて、使徒たちは「祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(4節)と語りました。1節の「分配」と4節の「奉仕」は、原文では同じギリシア語です。興味深いことです。私たちは生身の人間ですから、食べ物が必要です。生活するために必要なものがあります。「分配」には、物品もお金も含まれています。その「分配」と御言葉の「奉仕」が同じ語ということは、御言葉は「霊の糧」であるということ。この困難に対して、弟子たちが物品やお金を行き渡るようにしたのと同様に、霊の糧も弟子たちに行き渡るようにすることを意味しています。その結果、教会全体が、神の言葉を味わうことができるようになりました。これが、常に教会の目当てです。
 「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(7節)。