9月25日(日) 聖霊降臨節第17主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編33篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 マタイによる福音書第6章9節
説 教 「神の名は聖なるもの」
〔主の祈りによる説教〕
賛 美 549
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
今回から、主の祈りの本文に入ります。始めの三つの祈りは神についての祈りであり、後の三つの祈りは人が共に生きるために必要な祈りです。主の祈りの構成は、十戒と同じ構成です。十戒も前半は神についての戒めであり、後半は人が共に生きるために必要な戒めとなっています。
「御名が崇められますように」(9節)は、十戒の第1の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)に対応しています。聖書の神は、イスラエルの民を「エジプトの国、奴隷の家から導き出した神」であり(出エジプト20:2)、キリストの教会にとっては、私たち人間を罪と死の奴隷状態から救い出してくださった、主イエス・キリストの父なる神です。その神以外神としてはなりませんし、この神の御名以外に、崇められるべき名はありません。
2018年に最新の翻訳である聖書協会共同訳聖書が刊行されました。本日の聖書箇所は「御名が聖とされますように」と訳されました。直訳に近いです。祈りの中で、私たちは神にお願いをしているのです。人間には神の御名を聖なるものとすることができません。ただ神だけがご自身の御名を聖なるものとなさいます。私たちはこの祈りを祈るばかりの者なのです。
最近はネット社会になり、誰もがネットを通して発信できるようになりました。けれども残念ながら、匿名の誹謗中傷の発言によって傷つけられ、時にはそのために命を絶つほどの事件も起こっています。悪意がある場合、あるいは名前を出すのがはばかられる場合に人は匿名で発言します。しかし神は、はばかることなく、人間にご自分の名前を示してくださいました。
出エジプト記第3章13節以下を読みます。神はモーセに「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ…あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3:14~15)。神は、永遠から永遠まで存在しておられる方であり、アブラハムやイサク、ヤコブなしに神であろうとはなさらなかったお方です。
こうして神は、イスラエルを救い出し、神の民として生きる道である十戒・律法を授けられました。しかし旧約聖書を読むと、イスラエルはこの戒めに生き抜けなかったことが分かります。人間はそのままでは律法を守ることができないのです。主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである」(マタイ5:17)と言われました。神は、主イエスを世にお遣わしになることで、人に律法を成就する道を開いてくださいました。主の祈りを祈ることはその道を歩むことです。
主イエスは、十字架に命を献げる前に弟子たちのために祈ってくださいました。ヨハネによる福音書第17章を読みます。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」(6節)。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(11節)。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(26節)。神の御名は生きて働くのです。この御名によって、私たちは守られ、聖なる者とされ、愛されているのです。この神の恵みをどこで知ることができるでしょうか。私たちは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」られています(マタイ28:19)。洗礼を受けているとは、神の御名による恵みに包まれていることなのです。