10月23日(日) 降誕前第9主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 351
主の祈り
交読詩編 詩編138篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第8章4~25節
説 教 「悪を捨てて主に立ち帰れ」
賛 美 440
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
最近、NHK・Eテレ「こころの時代」で「問われる宗教とカルト」が放映されました。安部元首相の銃撃事件をきっかけに、宗教とカルトのあり方が問われています。6人の宗教者・宗教学者による討論がなされました。以前放映された「コヘレトの言葉」に出演していた若松英輔さん(カトリック。批評家・随筆家)もおられて、その発言に大いに共感しました。「救いは絶対にお金では買えない。神にはお金はいらないから。そのことをはっきりと語らなければいけない。宗教施設にお金がかかるのは当然。それと救いとは関係はない」。今朝の聖書箇所とも響き合います。
ステファノの殉教と教会への迫害のため、信徒たちはエルサレムを離れて散って行きました。教会が分かれてしまいました。しかし「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩」きました(4節)。ステファノと共に選ばれた7人(使徒6:5)の1人であるフィリポは「サマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝え」ました(5節)。彼の福音宣教には、汚れた霊が追い出され、中風患者などが癒されるしるしが伴いました。サマリアの町の人々は喜び、福音を信じました。
フィリポが訪れた町には、シモンという魔術師がおり、その魔術によって人々を驚かせており、人々はシモンの魔術に心を奪われていました(10~11節)。しかし、フィリポがサマリアで福音を語ると、人々は洗礼を受け、シモン自身も洗礼を受けました。
サマリアの人々が神の言葉を聞いて信じて洗礼を受けたという報告が、エルサレム教会に届けられました。エルサレム教会の使徒たちは、ペトロとヨハネを派遣しました。「聖霊を受けるようにとその人々のために祈」るためでした(15節)。「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったから」です(16節)。使徒たちがサマリアに派遣されたことは、場所は異なっていても、キリストの体である教会は一つであることを示しています。弟子たちは互いに仕え合っています。サマリアに到着した「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受け」ました(17節)。聖霊の賜物は、洗礼を受けたら自動的に降るのではなく、神の自由なお働きであり、憐れみによることが分かります。恐らく、罪の赦しを求める悔い改めの祈りがあったのでしょう。悔い改め、赦しを求める心を、神は見過ごすことはなさいません。こうして、使徒の祈りを通して洗礼が全うされました。
この光景を見ていた魔術師シモンは、お金を持ってきて、ペトロとヨハネに「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」(19節)と言いました。ペトロは「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」と言いました(20節)。非常に厳しい言葉です。しかし、ペトロはシモンに「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ」(22節)と語り、シモンが滅びることを願ったのではないことも分かります。
「世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか」(ヤコブ4:4)。私たちが「教会のため、神様のため」と言いながら、お金や能力や地位などの人の知恵や世の力を頼みとするならば、世の友となることであり、神の敵となることです。ヤコブの手紙はこう続きます。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。…神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:5~6)。神は愛の神、祝福の神です。神の憐れみ、恵みによってのみ生きる信仰の謙遜が求められています。