10月30日(日) 降誕前第8主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    494
主の祈り
交読詩編  詩編19:1~5a
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第6章9~10節
説  教  「神の国は到来する」
        〔主の祈りによる説教5〕
賛  美   412
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 「御国が来ますように」(10節)。直訳すると「あなたの国が来ますように」。「あなたの国」とは、天におられる父なる神の国です。主イエスは御国、すなわち神の国についてたくさん語っておられます。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1:14~15)。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)とも言われました。主イエスが来られることによって、神の国はすでに地上に来ているのです。
 「国」というと、現代では国境があり、憲法があり、制度があると考えますけれども、「神の国」は、神の王国、神の御支配を指します。以前、西川口教会でお招きした山浦玄嗣先生は「神の国」を「神様のお取り仕切り」と訳されました。主なる神が王として支配されるということです。
 マルコによる福音書第10章13節以下を見てみましょう。主イエスに祝福していただくために、人々が子供たちを連れてきましたが、弟子たちはこの人々を叱りました。それを見て、主イエスは弟子たちを激しく怒り、こう言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:14~15)。子供のように神の国を受け入れる人とはどのような人でしょうか。当時、女性と子供はそこにいるのに、人数にカウントされない存在でした。子供には、社会的な力はなく、保護されなければ生きていけない存在でした。そのように、力なく、力に頼ることもできず、誰からも見捨てられていると思われる人を、主イエスは分け隔てなく訪れてくださいました。足の不自由な人、目の見えない人、財産を持っていても孤独で嫌われていた徴税人を訪れ、福音を語り、癒してくださいました。神の国はすべての人のために始まっていることを示されました。
 主イエスは神の御支配を届けるために生き、そのために十字架に死なれました。しかし、イエスは復活され、そのいのちの光の中で「御国が来ますように」との祈りを与えてくださっています。神の御支配は、死を突破します。死に打ち勝ちます。死を超えていきます。神の御支配は、主イエスが再び来てくださるところまで及びます。
 ですから、「御国が来ますように」との祈りは、「主イエス・キリストの御業が成りますように」との祈りであり、「私たちがキリストのものになりますように」との祈りでもあります。イエスが主であるという信仰の祈りです。
 主イエス・キリストはすでに到来して、十字架と復活の救いを果たしてくださいました。しかし世界はまだキリストに従っていません。神はどんな人にも自由をお与えになり、神に自発的に応答することを待っておられるからです。「御国が来ますように。キリストの御業が成りますように」との祈りは、神に応答する信仰の決断の問題であり、私たちが問われていることなのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)との祈りが思い起こされます。信仰はどこから来るのでしょうか。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)のです。ですから「御国が来ますように」とは「御言葉を来たらせてください」という祈りです。御言葉を待ち望む祈りです。「御国が来ますように」とは、ついに、キリストが再び来られて、全宇宙が神の御支配することになるその日に目を注ぎながら、今を生きていく祈りです。