11月6日(日) 降誕前第7主日・聖徒の日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    385
主の祈り
交読詩編  詩編23篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第8章26~40節
説  教  「走り寄り、手引きして」
賛  美   504
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 「そこは寂しい道である」(26節)。この言葉がまず心に留まりました。住んでいる人が少ないのか、行き来する人が少ないのかも知れません。文脈では「エルサレムからガザへ下る道」(26節)ですが、実際の道だけでなく、私たちの人生で「寂しい道」を歩むことがあるのではないでしょうか。
 本日は聖徒の日。西川口教会では年に一度の召天者記念礼拝をささげる日です。既に神のみもとに召された信仰の先輩方のお写真を飾って、在りし日を偲び、共に礼拝します。このお写真の方々も、今、共に礼拝している私たちも、どのようにして教会の礼拝に来るようになったか、神を信じるようになったかは、いろいろです。私は、親がキリスト者であったから教会に来ました。お写真の中のある方は、自殺一歩手前まで追いつめられていたのに、神に救われたとのお証を語られました。また、私たちは、救われて信仰生活を過ごしていても、思いがけない出来事、病気や、家族の問題、経済的な課題などで、「寂しい道」を通らなければならなかったことがあるのではないでしょうか。
 初代教会の奉仕者であるフィリポは、サマリアの町をあとにして、神が命じられるとすぐに「エルサレムからガザへ下る道」(26節)へ向かいました。その道で出会いがありました。エチオピア人の高官で、女王の全財産を管理していた宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であり、馬車に乗っていて、イザヤ書を朗読していたのでした。すると聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」とお命じになりました(29節)。その命令に従って、フィリポが走り寄ると、確かに、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえました。フィリポは宦官に「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけました(30節)。私はこの記事を読むたびに、フィリポは一所懸命に走り寄り、馬車から離れないようにひたすら走り続けて、この人に声をかけたのだ、本当に伝道者だなあと思います。
 宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました(31節)。この人は、神の言葉の意味を追い求める心があり、フィリポを招き入れることまでする、とても謙遜な人だと思います。32~33節の言葉は、イザヤ書第53章7~8節です。宦官はフィリポに尋ねました。「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)。そこでフィリポは、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせ」ました(35節)。すなわち、主イエスが苦しみの末に救いをもたらす主の僕であると説教しました。さらに主イエスが復活し、今も生きておられ、天に上げられ、神の右の座におられることも語ったと思います。フィリポの説教を聞いて、宦官は福音に心を開いて、理解しました。この人が洗礼を求めたことからそれが分かります。「フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授け」ました(38節)。不思議なことが起こり、主の霊がフィリポを連れ去って、宦官の目にはフィリポの姿が見えなくなりましたが、彼は救いの喜びにあふれて旅を続けました(39節)。
 31節の「手引きする」は「道案内する」とも訳せる言葉です。使徒言行録では、主イエスをキリストと信じて生きることを「この道」と呼んでいます。寂しい道を歩んでいた私たちも、道案内をする人と出会い、キリストへ導かれた、このエチオピアの宦官のようではないでしょうか。信仰の先輩の方々が私たちに道案内してくださいました。主日礼拝もまた「この道」への道案内をしていただいているときなのです。