11月27日(日) 降誕前第4主日・アドベント第1主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    242(1節)
主の祈り
交読詩編  詩編115篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第6章9~10節
説  教  「神の思いと人の思い」
        〔主の祈りによる説教6〕
賛  美    392
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 主イエスが弟子たちに、そして私たちに教えてくださった「主の祈り」は、「天におられるわたしたちの父よ」〔天にまします我らの父よ〕(9節)と、父なる神への呼びかけに始まり、6つの祈りがあります。現在の主の祈りには最後に頌栄が加えられています〔国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり〕。前半の3つの祈りは、神についての祈りです。今日はその3番目の祈りです。第1の祈り「御名が崇められますように」〔御名をあがめさせたまえ〕(9節)、第2の祈り「御国が来ますように」〔御国をきたらせたまえ〕(10節)と比べて、第3の祈り〔御心の天になるごとく地にもなさせたまえ〕は長いです。「御心が行われますように」(10節)で終わらず、「天におけるように地の上にも」(10節)がなぜ必要だったのでしょう。「地」とはどこでしょう、何でしょう。皆様、考えたことがありますか。
 主イエスが教えてくださった祈りですから、私たちに先立って主イエスが祈られたはずです。イエスの生涯は祈りの生涯ですが、「御心が行われますように」と祈られたお姿が鮮やかに示されているのは、ゲツセマネの祈りです。マタイによる福音書第26章36節以下を見たいと思います。
 主イエスは弟子たちを伴われてゲツセマネに向かわれました。主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネに言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。ご自分はさらに少し進んで行って、うつ伏せになり、こう言われました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)。「この杯」とは十字架の苦難と死です。主イエスは、易々と十字架の死を引き受けることがおできになったのではありません。十字架の死は、罪人の代わりに神の怒りの裁きを受けることであり、神に見捨てられることだからです。しかし、自分の願いではなく、父なる神の御意志が成るようにと祈られました。主イエスがペトロとヤコブとヨハネのところへ戻られると、彼らは眠っていました。過越祭の食事ではぶどう酒も飲んだでしょう。目を覚ましているように言われていても、起きていられなかった弟子たち。自分自身の弱さを見る思いです。
 イエスは、更に2度目に向こうへ行って祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(マタイ26:42)。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていました。もう弟子たちを起こされませんでした。イエスはただ独り、父なる神に「あなたの御心が行われますように」と祈られました。主の祈りを授けてくださった主イエスです。ここでも「天におられるわたしたちの父よ」と神をお呼びになったはずです。その「わたしたち」には、眠り込んでしまい、このすぐ後にイエスを見捨てて逃げてしまう弟子たちが、イエスを知らないと言ってしまったペトロが、そのような罪人の私たちが含まれています。そのような罪人のただ中に、神の子が人となられて来てくださったのが、クリスマスの出来事です。主イエスは罪人の仲間になって「わたしたち」と言ってくださるのです。罪人たちの罪を負って十字架に赴いてくださったのです。「地の上にも」の「地」とは私たちのことなのです。
 十字架を前につまずいてしまった弟子たちは、復活の主イエスによって再び立ち上がらせていただきました(マタイ28:16~20)。よみがえられた主イエスは天と地の一切の権能を授かっているお方であり、世の終わりまで、いつも弟子たちと共にいてくださいます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。これは教会に与えられた使命であり神の御心です。