12月 4日(日) 降誕前第3主日・アドベント第2主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 242(1~2節)
主の祈り
交読詩編 詩編146篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 マタイによる福音書第6章9~11節
説 教 「日毎の食物を今日も」
〔主の祈りによる説教7〕
賛 美 425
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
主の祈りの第4の祈り「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)。イエス・キリストが授けてくださった「主の祈り」です。主イエスが、まずこの祈りを祈られたはずです。福音書にはイエスが飲み食いされている記事がたくさんあります。「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ 11:19)と悪口を言われるほどでした。イエスは貧しい大工の家庭に生まれ、貧しい人々の飢えも渇きもご存じでした。家を離れ、神の国の福音の宣教を始められてからは、「種も蒔かず、刈り入れもせず」(マタイ6:26)、日々必要な糧を与えられて宣教されました。主イエスにとってこの祈りも切実な祈りであったはずです。
信じて生きるとは、精神的なことでもなく、抽象的なことでもなく、食物という日常に関わることでもあるのです。私たちの肉体は食べなければ維持できません。この体で信じて生きていくのです。神は私たちに食物を与え、養ってくださいます。人は、神の配慮なしに生きられない。そのことを忘れないために、この祈りがあるのではないでしょうか。そうでなければ、私たちは自分の力で食べ物を得られると思い込んでしまうかもしれません。
「必要な糧を今日与えてください」という祈りから、荒れ野を旅する神の民イスラエルのマナの出来事を思い起こします。出エジプト記第16章を見てみましょう。イスラエルの人々は飢えに耐えかねて、モーセとアロンに不平を述べ立てました。その民の声を聞いて、主なる神はモーセに言われました。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパン〔マナ〕を降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」(出エジプト16:4)。天からのパンは、まとめて与えられるのではなく、その日の分をその日に集めるのです。民の中のある者がマナを取っておいたら、翌日は臭くなって食べられませんでした。民はその日の分をその日に集めてその日に食べるしかありません。しかし、6日目には2日分のパンを集められ、7日目の安息日のために翌日までそのパンを取っておくことができました。こうして荒れ野の旅の40年間、約束の地に入るまで、民はマナを食べました。神は毎日マナを降らせ続けてくださいました。神の民は、一日一日を神に信頼して、神に養われて生きるのです。
主イエスが、ご自分を慕って集まった人々を空腹のまま帰さず、五つのパンと二匹の魚を増やして五千人に食べ物を与えられた出来事は、4つの福音書すべてに記されています。ヨハネ福音書では、この奇跡の後にこう記されています。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6:15)。恐らく人々が「イエスが一緒なら食うに困らないぞ」と考えたからではないでしょうか。イエスは人々の飢えを満たしてくださいましたが、人々が神を信頼せず、自分を王としようとする思いは退けられました。イエスはこうも言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:26~27)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。神が、私たちのために朽ちる食べ物についても配慮してくださるのは、私たちが神に信頼して生きるためです。
最後に、「わたしたち」とはだれでしょう。神のかたちに造られた地上に生きる人すべてです。日常の食物についての祈りであると共に、大きな広がりを持った祈りなのです。