12月18日(日) 降誕前第1主日・アドベント第4主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    242
主の祈り
交読詩編  詩編36篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第6章9~13節
説  教  「お救いください」
        〔主の祈りによる説教9〕
賛  美    530
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 主の祈りの6つの祈りのうち、はじめの3つは神のための祈りで、続く3つの祈りは私たちのための祈りです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(13節)は、私たちのための祈りの最後の祈りです。助けを求めて叫ぶ祈りです。「助けてください」と神に祈ってよいのです。
 主の祈りは以前にも説教しましたが、今回、取り組むなかで「主の祈りは実に祈りにくい」という言葉に出会い、立ち止まりました。私の場合、祈りにくいよりというも、切実な祈りになっていないのです。それはどうしてなのか、自問しました。主の祈りが切実な祈りになっていないのは、私が神の前に自分の弱さを認めていないからであり、自分の弱さに向き合わず、弱さを本気で認めようとしないからではないか、と気付きました。
 一般的に「信仰を持つのは弱い人間のすることだ」という考えがあると思います。さらに、現代日本社会は人に強くあることを求めていて、弱さを見せることができず、弱いのは「自己責任だ」と決めつけられてしまいます。もしかしたら信仰者であっても、知らず知らずのうちに「強くなければいけない」という価値観が入り込み、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」よりも、「わたしたちを誘惑に負けない者とし、悪に勝たせてください」と祈るべきである、と考えるかもしれません。しかし、主イエス・キリストは、私たちのために、助けを求めて叫ぶ祈りを与えてくださいました。
 使徒パウロも、自分の弱さを認めた人でした。コリントの信徒への手紙二第12章7節以下を読みたいと思います。パウロの「とげ」が具体的には何であるかはわかりませんが、肉体をさいなむ何らかの病気があったと推測されています。パウロは、このとげが除かれるよう、徹底的に祈りました。主の答えは、パウロの思いを超えておりました。「…主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント二12:9)。弱いからこそ、キリストの恵みの大きさを知り、キリストが我が内に豊かに働いてくださるのです。弱さが積極的な意味を持つものに変えられました。パウロはこの主の言葉を受け入れました。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント二12:10)。
 もう一箇所、マルコによる福音書第9章22節以下を読みます。汚れた霊に取りつかれた息子のため、その子の父親が主イエスに癒しを願いました。父親の「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(マルコ9:22)の言葉が胸に迫ります。父親は、望みを抱いては失望することを繰り返してきたのではないでしょうか。そこでイエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコ9:23)と言われました。失望の不信仰に座り込むことから救い出す、断固とした言葉でした。「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(マルコ9:24)。この祈りがあることに救われます。弱さの中に立て込もうとしてしまう自分自身を丸ごと、神の確かさに飛び込むようにして祈る祈りだからです。
 この祈りも「わたしたち」のための祈りです。人となられた主イエスは、私たち人間の味方となって、人間の弱さをご存じで、私たちのために、先立って祈り、執り成してくださいます。私たちは「お救いください」と祈ってよいのです。