12月25日(日) 降誕節第1主日・降誕日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 Ⅱ219「さやかに星はきらめき」
主の祈り
交読詩編 詩編98篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 歴代誌上第29章11~13節
ルカによる福音書第2章14節
説 教 「天に栄光、地に平和」
〔主の祈りによる説教10〕
賛 美 259
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
(礼拝音声では聖餐部分を割愛)
説教要旨
主の祈りの説教を続けて、最後の頌栄「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」(日本キリスト教協議会統一訳では「み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです」)まできました。この言葉そのものは聖書にはありません。初代の教会が主の祈りに付け加えました。当時のキリスト者はユダヤ人が多く、ユダヤ人は祈りを頌栄で終える伝統があったため、ダビデの祈り(歴代誌上第29章10節以下)に基づいて、主の祈りに頌栄を付け加えたのではないかと言われています。神の国、神の力、神の栄光です。初代教会の人々は「まことの国と力と栄えは、父よ、あなたのもの」と賛美しました。
しかし国も力も栄光も、世の支配者がやっきになって求めている事柄です。世の支配者は、自分の国を築くことに一所懸命で、権力を振りかざし、自分の栄光を追い求めています。
ルカ福音書第2章1~7節には、ベツレヘムで、主イエスがお生まれになった記事があります。イエスの母マリアと夫ヨセフはなぜベツレヘムへ行かなければならなかったのでしょう。住民登録をせよとローマ皇帝から勅令が出たからです。人口を確認し、国力を知り、税を集めるためでしょう。昔も今も権力者が考えることは同様です。勅令に従うほかないヨセフは、身重のマリアを連れてベツレヘムに行きました。この貧しい夫婦のもとに救い主はお生まれになりました。神はこのような時代に翻弄されるかのような人々を顧みてくださるのです。
そのベツレヘムの町にも入れず、郊外の野原で、羊の群れの番をしている羊飼いたちに救い主の誕生の知らせが届きました(ルカ2:8以下)。羊飼いは絶えず羊の世話をしなければなりません。そのために安息日を守れませんでした。羊飼いは裁判の証人になれなかったそうです。羊はユダヤ人にとって必要な家畜です。祭儀の犠牲にも用いられ、肉は食用、毛や皮は衣服などに用いられます。旧約聖書に登場するアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデは羊飼いでした。詩編23篇では主なる神が羊飼いとあります。羊飼いはどこにでもいる普通の人々でした。ユダヤ社会にとって羊は必要不可欠な家畜なのに、主イエスがお生まれになった時代、その世話をする羊飼いは疎外されているという矛盾がありました。このような矛盾もまた、昔も今もあります。神は、野原にいる羊飼いだけに御使いを遣わされました。神はこの人間社会の矛盾をご存じであり、追いやられている人を顧みて、大きな喜びの知らせを告げ知らせてくださるのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。この賛美は二つで一つのことを言っています。主の祈りを心から祈り、心から神をほめたたえ、神に栄光を帰す人は、神との間に平和を得ているはずです。その人は神の御心に適う人であるはずです。
天の大軍が歌った、天の喜びとは何でしょう。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。主の祈りを心から祈ることは、天の父の懐に飛び込むことです。天の父に立ち帰ることです。主の祈りを真実に祈るとき、天には大きな喜びがあるのです。
主イエスにおいて栄光はどのように示されたのでしょう。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:23~24)。主イエスは、力を振るうことなく、黙って人の罪を負い、十字架に命をささげられました。十字架こそ主の栄光です。