1月1日(日) 降誕節第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   368
主の祈り
交読詩編  詩編96篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第18章18~20節
説  教  「アーメン、アーメン!」
        〔主の祈りによる説教11〕
賛  美   543 
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 主の祈りの終わりの「アーメン」はどういう意味でしょうか。言葉の意味は「まことに」、「本当にそうです」です。私たちの祈りにおいても、神を呼び、求めを申し上げ、主イエスの御名によって祈りを終え、「アーメン」と言います。けれども、ともすると、「祈ったのに聞かれない…」との疑いがもたげてくることがあります。神への信頼と疑いを揺れ動くような私たちです。
 ハイデルベルク信仰問答の最後の問答にこうあります。
 “問 『アーメン』という言葉は、何を意味していますか。
 答 『アーメン』とは、それが真実であり、確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。”
 このことを証ししている聖書の言葉をいくつか読んでいきます。
 テモテへの手紙二第2章13節「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」。まさに「アーメン」です。常に変わらないキリストの真実によって祈りは支えられています。
 もう一つ使徒パウロの言葉、コリントの信徒への手紙二第1章20節「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」。私たちが「アーメン」と言えるのも、この方、すなわち、神の子イエス・キリストを通してなのです。神が、救いの約束を、キリストを通して成就してくださいました。私たちがお祝いしたクリスマスも神の約束が『然り』となった出来事です。人間を救うため、神は約束どおり救い主を遣わし、主イエスはお生まれになりました。
 先ほど読みましたマタイ福音書の本日の聖書箇所に2回「はっきり言っておく」(18節、19節)がでてきました。これも実は「アーメン」なのです。「はっきり言っておく」を直訳すると「アーメン、わたしはあなたがたに言う」です(聖書協会共同訳では「よく言っておく」)。福音書において、主イエスだけがこの言葉を語られ、本当に大切なことを告げておられます。
 ヨハネの黙示録第3章14節には「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方…」とあります。主イエス・キリストご自身が「アーメンである方」なのです。
 アーメンそのものであるキリストの真実に支えられて、私たちは祈ることができるのです。そのことを心に留めて、マタイによる福音書第14章22節以下の出来事を読みたいと思います。
 ガリラヤ湖で弟子たちだけを乗せた舟は、風と波に悩まされていました。主イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。聖書で湖や海は、闇・死・混沌・無秩序を示しています。イエスが湖の上を歩かれるとは、それらを支配されるということです。弟子たちは、近づく主イエスを幽霊と思い込み恐れました。私たちがイエスと分かるのは、自分の判断によるのではなく、ただ主の言葉によるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この「わたしだ」もイエスが神ご自身であることの宣言です(出エジプト3:14参照)。ペトロが願い出て、舟からイエスに向かって歩き出しますが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけました。ペトロは私たち人間を代表しています。主イエスから目を離さなければいいのに、風や波を見てしまっておびえるのです。ペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスはすぐに手を伸ばしてくださいました。私たちは、ただ主イエスに「助けてください!」と祈るしかありませんし、祈ることが許されています。主イエスの真実が私たちを支えてくださるからです。