1月15日(日) 降誕節第4主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   58
主の祈り
交読詩編  詩編133篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第10章1~16節
説  教  「祈りは届いた」
賛  美   493
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 今日から、ローマの百人隊長コルネリウスの救いの出来事を見ていきます。このコルネリウスの救いの出来事が比較的長い記事として記録されているのは、非常に大切な出来事だからです。
 私たちは、主日礼拝でいつも使徒信条によって教会の信仰を言い表しています。その中に「聖なる公同の教会(を信ず)」とあります。その「公同の教会」とは平たく言うと「だれでもの教会」です。教会は誰のためにも存在しており、誰にでも開かれています。しかし初めからそうではありませんでした。そのことは、このコルネリウスの救いの出来事から分かります。聖書の民であるユダヤ人からすれば、コルネリウスは異邦人です。異邦人が救われて教会という信仰共同体の一員となるには、教会が変わらなければならず、使徒ペトロが変わらなければならなかったのです。つまり、コルネリウスの救いの出来事は、初代の教会の変革の出来事でもあります。
 ローマ帝国の軍人であり、100人の兵卒を率いる百人隊長のコルネリウスが、どのようにしてユダヤ人の神を信じるに至ったのかは分かりません。コルネリウスは「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2節)。彼は、家族皆を信仰へ導いていました。さらに、神を畏れる信仰の表れとして、民への施しという愛の業と、常に神に祈る生活を送り、神の言葉を重んじて生きていました。
 いつものように午後3時の夕方の祈りをささげていたコルネリウスのもとに、神から天使が遣わされました。天使は彼に呼びかけました(3節)。彼は、神の前に自分がさらけ出されていることに恐ろしくなり、やっとの思いで、「主よ、何でしょうか」と返事をしたと思います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」(4~5節)と天使は告げました。コルネリウスはこの神の言葉に従い、ヤッフャに使いを送りました。
 このコルネリウスの使いがヤッフャに近づいていたころ、何も知らないペトロは、昼の祈りの時間に屋上で祈っていました。ペトロが空腹を感じているうちに、不思議が起こり、彼は天からの幻を見ました。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて下りて来て、その中には、あらゆる生き物が入っていました(11~12節)。声が聞こえました。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」(13節)。彼は答えました。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(14節)。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15節)と声が聞こえました。これが3度繰り返され、入れ物は天に引き上げられました(16節)。
 ペトロの答えはある面では当然でした。律法には食べてよい生き物とそうでないものとが定められていて、食べてはならない生き物を食べて自分を汚してはならない、と命じられていたからです。一方、主イエスにつき従ってきたペトロは、主イエスのお言葉を聞いていたはずでした。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない…それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。…人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(マルコ7:18~21)。
 コルネリウスの祈りは神に届き、神はコルネリウスを教会に招かれました。彼の救いのために、神はペトロに働きかけられました。牧師、役員会、教会が変えられることで、コルネリウスのような人が教会に加えられるのかもしれません。