1月22日(日) 降誕節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   57
主の祈り
交読詩編  詩編15篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第10章17~33節
説  教  「主の言葉を聞こう」
賛  美   560
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33節)。神殿でもなく、礼拝堂でもない、コルネリウスの家です。目の前にはペトロ先生がおります。しかしコルネリウスは「わたしたちは神の前にいる」と語ります。これは信仰の言葉です。コルネリウスひとりではなく、彼の親類と親しい人たちが、共に、ペトロに与えられた主の言葉を聞こうと集まってきました。今、私たちがささげている礼拝も同じなのです。神の御前で、神が立てられた人の口を通して、神の言葉を共に聞こうとしています。ここに教会の姿が見えています。
 先週に引き続き、ローマ帝国の百人隊長コルネリウスの救いの出来事を見ていきます。先週語ったとおり、コルネリウスが救われて教会の一員となるために、使徒ペトロが変えられなければならなかった出来事でもあります。
 ヤッファの革なめし職人シモンの家に滞在していたペトロは、昼の祈りのため屋上に上がりました。そこで、主なる神からの幻を見させられました(使徒10:10~16)。
 ペトロは、この幻は何だろうかと、途方に暮れ、困惑していました。そのころ、カイサリアのコルネリウスからの使者が、ペトロが滞在している家を探し当てました(17節)。彼らは、ユダヤ人が外国人と交際しないことを知っていたので(28節参照)、中に入らず、門口から大きな声で呼びかけました(17~18節)。聖霊がペトロに「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」(19~20節)と語られました。実際は、コルネリウスがよこした使者ですが、聖霊が「わたしが…よこした」と語られたのは、この出来事が神の導きによるものだからです。ペトロは導きに従い、降りていき、名乗り出て、使者たちに自分を探しているのはどうしてかを尋ねました(21~22節)。彼らは、事の次第を伝えました(22節)。ペトロは彼らを迎え入れ、泊まらせました(23節)。泊まらせたからには、ペトロは彼らと食事を一緒にしたはずです。これは当時のユダヤ人からすれば、あり得ない、驚くべきことでした。
 翌日、ペトロはコルネリウスの使者と、ヤッファの教会の数名の仲間たちといっしょに、カイサリアに向かいました。翌日到着すると、コルネリウスは、親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。「コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」(25節)。ユダヤ人の慣習を思って、まずコルネリウスは家を出て、外でペトロを迎えましたが、ペトロを拝んだというのは、神からの人と考えたからではないでしょうか。ペトロは自分を拝むことを止めさせて、言いました。「お立ちください。わたしもただの人間です」(26節)。これは、神の前にあっては、あなたもわたしもただの人間として、共に立っているということです。神の前には皆、共に「ただの人間」。そのただの人間同士が、互いに受け入れ合い、共に同じ主なる神を仰ぎ、共に主の言葉を聞くこと。そこに教会があるのです。信仰者の群れがあるのです。
 「お立ちください」(立ち上がる)。この動詞は、実は、使徒言行録第9章の終わりから10章にかけて何度も使われています。天から響いた声の「身を起こして」(使徒10:13)は、直訳すれば「立ち上がりなさい」です。ペトロは主から3度も「立ち上がれ」と言われたのです。「立ち上がる」という言葉は、今いるところから離れて、新しく踏み出すときにも用いられます。まずペトロが「立ち上がれ」と神から命じられました。だからこそ、コルネリウスに「お立ちください」と言うことができたのです。