1月29日(日) 降誕節第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 16
主の祈り
交読詩編 詩編33:12~22
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第10章34~48節
説 教 「イエスはすべての人の主」
賛 美 390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
ローマ帝国の百人隊長コルネリウスは、親類や親しい友人を呼び集めて使徒ペトロを待っておりました。いよいよペトロの説教が始まります。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)。これは神の紹介であると同時にペトロの悔い改めの言葉です。「私は人を偏り見ていて、あの人が救われることはないと思っていました」という思いが込められています。しかし「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35節)。これは正しいことを行ったから救われるというのではなく、神は、神を畏れる人とその行いをご存じであられるということです。ペトロは「この方(イエス)を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(43節)と、説教の最後で語っています。コルネリウスも主イエスによる罪の赦しを受ける必要がありました。
「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう」(36~37節)。現代にも響きます。もう1年になろうとしているロシアのウクライナ侵攻。停戦の気配もありません。国と国、民族と民族、分断があります。私たち一人ひとり、本当に平和の中に生きているでしょうか。平安があるのでしょうか。問われます。
以前、キリスト教主義の大学の先生のお話をラジオ番組で聴きました。学生たちと旧約聖書のヨブ記を読んだとき、ヨブの苦悩に学生が「このように苦しんでるのは自分だけではないと知った」と言って共感したというのです。人もうらやむような大学の学生さん。スマホでいつでも他の人とつながれるのに自分の苦しみを伝えていないことに驚き、存在が痛んでいることを知りました。たとえ信仰者であっても、神から目を逸らしたら不安にとらわれることを、私たちはよく知っています。キリストが告げられた平和とは、何よりも神との和解です。「あなたは生きていてよい」と存在そのものが神に受け入れられているのを知ることです。
「イエスは…悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(38節)。私たちの罪に働きかける悪の力は存在しています。そうでなければ、戦争など起きません。主イエスはそのように苦しむ人々を訪れて、罪と悪から解放し、平和の中に生かしてくださいました。
主イエスを憎む人々が「イエスを木にかけて殺してしまいました」(39節)。ユダヤの当局もローマ総督ピラトも、弟子たちも主イエスを見捨ててしまい、イエスは十字架に死なれました。しかしイエスは死で終わる方ではありません。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」(40節)。「イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をした」(41節)とは、イエスが本当に生きておられる証しです。復活したイエス自ら弟子たちを訪れ、赦し、弟子として再び立ち上がらせてくださいました。主イエスが「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者」(42節)、つまり、裁き主であられるとは、私たちには希望です。すべて正しく報いてくださるのです。
ペトロが説教を続けているときに、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降り(44節)、神を賛美しました(46節)。使徒言行録第2章の聖霊降臨の出来事のようでした。ここでは異邦人に聖霊が降りました。そこでペトロは、コルネリウスたちに主イエスの名によって水の洗礼を受けさせました(48節)。コルネリウスはローマの軍人で、ペトロからすれば支配者側の人間です。しかし、それぞれにキリストが主となられ、キリストによって教会に入れられ、キリストにあって共に生かされることになるのです。