2月19日(日) 降誕節第9主日
礼拝順序〔埼玉地区講壇交換礼拝〕

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   197
主の祈り
交読詩編  詩編133篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ヨハネによる福音書第15章1~10節
説  教  「つながって実を結ぶ」
        〔説教者:初雁教会 町田さとみ牧師〕
賛  美   474
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

(礼拝音声はありません)
説教要旨

 本日の聖書の言葉は、ヨハネ福音書にのみ書かれた記事です。ヨハネ福音書第14~16章は、イエス様が十字架に向かわれる前に弟子たちに語られた告別説教です。本日の聖書箇所はちょうど告別説教の真ん中に置かれています。
 1節『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である』と始まります。『わたし』つまりイエス様はまことのぶどうの木で、『わたしの父』である父なる神様は農夫であると言われます。イエス様につながる枝とは、弟子のことであり、私たちです。父なる神様はこのぶどうの木の手入れをされて、実を結ばない枝は切って取り除かれるというのですから、農夫は厳しいお方です。それだけ、農夫である父なる神様は枝の状態をよくご存じだということです。
 枝が実を結ばない原因は何でしょう。ある場合は4節『ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない』という状態なのかも知れません。つまり、枝に実が結ばれないのは、イエス様につながっていないからだ、と。
 イエス様は続けられます。6節『わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう』。枝が木につながり、豊かに養分を受けていれば枝は実を結びますが、つながりが切れたら、養分は枝々まで行き届かず、実を結ばないのは当然です。枝を生かし、実を結ばせるのは、木の命です。
 イエス様から与えられる命とは、イエス様によって贖い出され、罪が赦されていること。イエス様の愛のゆえに罪人であった私たちが、イエス様と共に生きる者とされたという、十字架のお恵み(恩寵)そのものです。そしてイエス様の愛の内に生かされている、ということです。聖霊はイエス様の愛を木から枝へと行き渡らせ、枝である私たちはイエス様の愛に生きる者となります。
 つながらない枝とは、イエス様の愛をいただきながら、その愛に気づかなかったり、拒んだり、信仰を失ったようにして、愛の内に生きていない姿です。例えば福音書の中に、癒された者たちが皆イエス様の所に来たのではなく、たった一人がイエス様に感謝を告げに来た場面があります。
 5節『人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ』。大切なのは〝イエス様につながる〟ことです。口語訳では『実を結ぶようになる』と訳されています。結ぶようになる。つまり、今は信仰が未熟で、何かあったら倒れてしまいそうな信仰であっても、イエス様につながり、十字架のお恵みに与り、愛の内に生きるならば、実を結ぶようになる。イエス様は、実を結ぶ者へと育て、造り変え続けてくださるのです。
 9~10節『わたしの愛にとどまりなさい』とイエス様は言われます。とどまるとは、愛の内に生きることですが、それはイエス様のものになり、御心にお従いすることです。御言葉に立って歩むことです。今の信仰が頼りなくとも、主の愛の内に生きようと祈るならば、私たちはイエス様に似た者へと造り変えられ続けるのです。私たちをイエス様につなげてくださるのは主の憐れみです。愛の内を歩み続けます。