3月5日(日) 復活前第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   307(2回)
主の祈り
交読詩編  詩編147:12~20
祈  祷
使徒信条
聖  書  ルカによる福音書第19章28~44節
説  教  「平和への道を知る」
賛  美   573
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 本日から4月9日の復活日(イースター)までの主日礼拝の説教は、ルカによる福音書から受難週の出来事をたどっていきます。
 主イエスがエルサレムに入城される出来事は、他の3つの福音書にも記されていますが、41節以下の、主イエスが泣かれたことは、ルカ福音書だけに書かれています。主イエスが涙を流されたとはどういうことなのか、御言葉に耳を傾けたいと思います。
 ある牧師の説教を聞いたとき、その牧師が求道中の人から言われたという言葉が、私の心に残っています。「神の子であるイエスさまが十字架で死ぬなんて、そんなむごいことを、父なる神がお許しになるなんて、私には全く分かりません」。皆様なら何とお答えになりますか。私たちは福音書を終わりまで読んで、主イエスの十字架も復活も信じていますから、あまり驚くことも不思議に思うこともなくなっているかもしれません。しかし、先入観を持たずに十字架の出来事を見るならば、本当に謎だと思います。
 大勢の弟子たちの歓呼の声の中で、主イエスが涙を流されるお姿も不思議です。この弟子たちの歓呼の声を、主イエスは拒否してはおられません。ファリサイ派の人が「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったとき、イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになりました(40節)。しかし、エルサレムの都が見えたとき、イエスはその都のために泣かれました。悲しみを抑えることなく、大きな声で涙を流して、嘆かれました。そして言われました。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(42節)。「エルサレム」とは「平和の町」という意味です。イエスは、この都がやがて敵に取り囲まれて徹底的に滅ぼされる、と言われました。イエスの預言は実現し、約40年後の紀元70年にエルサレムはローマに滅ぼされます。今40年後を見ている人はおられますか。私たちは目の前のことに一喜一憂しやすいのではないかと思います。40年という期間だけではなく、イエスは時代を超えたものを見ておられます。「平和への道をわきまえる」とは「神の訪れてくださる時をわきまえる」(44節)ことだからです。
 さらに、この後に続く「わたしの家は祈りの家でなければならない」(46節)というイエスの言葉も「平和への道をわきまえる」ことに通じます。エルサレムには、神殿があり、祭司がおり、祭儀がなされ、動物の犠牲が献げられていました。しかし、まことの礼拝となっておらず、祈りの家となっていなかったのです。人々が自分の力で、人間の行いで、神を礼拝し、平和をもたらせることができると思っているだけだったのです。神殿から商人を追い出し、民の罪を明らかにされようとしたイエスに、「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」とあります(47節)。彼らはイエスを自分たちの既得権を脅かす存在としてしか見ておらず、排除しようとしました。このような思いは、私たちの中にあるのではないでしょうか。
 また、イエスがエルサレムに入られるのを弟子たちが喜んだのは「この方が自分たちを解放してくれる」という期待からだと思います。自分たちの願いを実現してくれる救い主を期待したのです。そのような思いも私たちにあるのではないでしょうか。
 主イエスは神の国をもたらすために来てくださいました。それはご自分が無力になり、死なれることによってです。イエスは民の罪が明らかにされ、民の罪によって十字架につけられることを見つめておられました。ご自分に苦しみを与える者のために涙を流し嘆かれた主イエス。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成してくださいました。ここに私たちの希望があります。