3月12日(日) 復活前第4主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 312
主の祈り
交読詩編 詩編41篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ルカによる福音書第22章14~34節
説 教 「新しい契約」
賛 美 510
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
(礼拝音声は、聖餐部分をカットしています)
説教要旨
主イエスの地上の生涯の最後の食事が、過越の祭りの食事となりました。それが最後の食事となるとは、イエスの弟子たちは思ってもみなかったでしょう。ルカ福音書だけが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(15節)と記しています。主イエスが切望していた食事であったのです。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(16節)という言葉にも、主イエスの断固たる決意が示されます。教会は、主の食卓(聖餐)を受け継いでいます。聖餐は、主イエスが切望しておられるものであり、断固たる決意でお定めになったことを、私たちはどれほどわきまえているでしょうか。
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』(19節)。パンは主イエスの体を示しています。パンが取り上げられ、裂かれたように、主イエスのお体も、十字架に上げられ、裂かれるのです。「体」とは全存在です。主イエスは、「あなたがたのため」、つまり、弟子たちのため、さらにすべての人のために、ご自身の存在そのものを差し出されたのです。「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(20節)。聖書には「血は命」とあります(申命記12:23他)。十字架で主イエスの血が流されるとは、「あなたがたのため」、つまり私たちのために、命を差し出されたということです。主イエスはこうして自ら十字架の出来事の意味を明らかにされ、主の晩餐(聖餐)を制定されました。過越の食事はイスラエルの救いの記念でしたが、新しい契約においては、イスラエルばかりでなく、すべての人のために主イエスの十字架の救いがあるのです。イエスによらなければ、誰も十字架の出来事の意味を悟ることはできないのです。
次いで主イエスは「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」(21節)と、驚くべきことを言われました。弟子たちは「いったいだれが」と議論し始めましたが、そのうち「だれがいちばん偉いか」という議論も始めました(24節)。彼らの関心はそこにあったのでしょう。これにはイエスが介入されました。「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(26節)。この言葉から、ヨハネ福音書第13章の洗足の出来事を思い起こします。主イエスは「父がすべてをご自分の手に委ねられたこと」を悟られました(ヨハネ13:3)。全権を父なる神から委任されたそのとき、イエスは何をなさったでしょうか。ひざまずいて、弟子たちの足を洗ってくださったのです。弟子の足を洗われたとは、主イエスが私たちの罪をことごとくぬぐい取り、洗い清めてくださるしるしです。仕える者となられたのです。
ルカ福音書に戻ります。主イエスは、シモン・ペトロにこれから起こることを予告されました。サタンが神の許しをいただいて、弟子たちは信仰を失うほどの危機的な試練に遭うというのです(31節)。続けて「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)と言ってくださいました。主イエスは、立派な信仰や大きな信仰とはおっしゃっていません。信仰は、主イエスだけに依り頼むこと。主イエスが執り成してくださっているからこそ、私たちは信仰を得ているのです。
これから聖餐にあずかります。パンと杯をいただくとき、「あなたのために祈った」との言葉を思い起こしましょう。