3月19日(日) 復活前第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 208
主の祈り
交読詩編 詩編11篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ルカによる福音書第22章39~53節
説 教 「闇を見つめる目」
賛 美 531
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
イエスは「いつものように」オリーブ山に行かれ「いつもの場所」に来られました。主イエスのご生涯は祈りの生涯でありました。一方、この夜の祈りは特別な祈りでもありました。「ひざまずいて…祈られた」(41節)。ユダヤ教の慣習では、祈りは通常立ってなされるからです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。「杯」とは、これから受ける苦難と十字架の死です。決して易々と飲み干せる杯ではなく、苦い杯でした。その祈りは苦闘の祈りであり(44節)、天使の励ましを必要とするほどのものでした(43節)。罪のない方が、罪人として私たちのために死んでくださるのです。イエスの苦しみには悲しみも伴ったと思いますが、それは祈りを弱めるどころか、ますます祈りに向かわせるものでした。しかし、そのとき弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでいました(45節)。二つの悲しみがあります。一方は祈りへ向かい、他方は眠り込む。この違いはどこから来るのでしょうか。弟子たちが眠り込んだとは、人間的に、悲しみをやり過ごす方法であったと思います。
主イエスが、過越の食事の後、ユダヤ当局に逮捕される前に祈られた出来事は、他の福音書にも記されています。イエスが祈りの前後で、弟子たちに2度「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じておられるのは、ルカによる福音書だけです(40節、46節)。この言葉の直訳は「誘惑の中に入っていくことのないようにしなさい」。2度目には「起きて」という言葉が付け加えられています。この「起きる」は45節の「祈り終わって立ち上がり」の「立ち上がる」と同じ動詞です。さらにこの動詞は、イエスが「起こされる」(復活する)ときに用いられています。ですから主イエスが苦闘の祈りを終えて立ち上がられたのは、復活のいのちの力によって、苦しみの杯を引き受けられたということ。弟子たちもまた、主イエスの復活のいのちの力をいただいて祈るなら、誘惑に入っていくことはないのです。
主イエスがシモン・ペトロに言われた「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)は、私たちにも大きな慰めの言葉です。この言葉が何に裏打ちされているかといえば、この主イエスの苦闘の祈りです。私たちは、シモン・ペトロはじめ、イエスの弟子たちと同じように、主イエスの思いも知らず眠り込んでしまう、罪に鈍い者です。そのような弟子たちのために、私たちの信仰が無くならないように、主イエスは、苦しみ、もだえ、ますます切に祈ってくださった。だからこそ、今、私たちは主イエスを信じさせていただいています。
イエスのところに、イスカリオテのユダが近づいてきました。その後ろには群衆がおりました。イエスの弟子たちのある者が剣を振るい、大祭司の手下の耳を切り落としました。イエスはそれを止めさせ、その耳に触れて癒されました。イエスを捕らえに来たのは「祭司長、神殿守衛長、長老たち」でした。宗教的・政治的トップの人たちが「強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来た」のでした(52節)。イエスは「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)と、はっきり語られました。弟子に裏切られ、当局に捕らえられるとは、まことに悲劇的ですが、イエスは冷静であり、イエスだけが真の意味で、今ここで何が起こっているのかをご存じでした。イエスは、苦しみの杯を飲み干そうとしておられる。闇の支配の時は限られたひとときであり、神のいのちの勝利の時が訪れることを確信しておられたのです。