2023年4月2日(日) 復活前第1主日・棕梠の主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   315
主の祈り
交読詩編  詩編130篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ルカによる福音書第23章32~49節
説  教  「十字架の主イエス」
賛  美   306
役員任職式
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

(礼拝音声は、役員任職式部分はカットしています)
説教要旨

 今朝は、本日の聖書箇所で、主イエスが十字架の上で語られた三つの言葉に注目したいと思います。どれも、ルカ福音書だけに記されている言葉です。
 イエスは天の父なる神に祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)。「彼ら」とはだれでしょう。ご自分を十字架に追いやったユダヤ当局の人々であり、十字架刑の執行を決めたローマ総督ピラト、またイエスを侮辱しているローマ兵もそうかもしれません。それらの人々の罪は、私たちの中にもあるものです。自分を十字架に追いやった者たちのために、イエスは神に赦しを祈られたのです。
 イザヤ書第53章の苦難の僕の姿を、教会はキリストの預言として信じました。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。…彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられた…。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」(イザヤ53:11~12)。ここに主イエスの十字架の出来事の意味が記されています。わたしの僕、つまり主なる神の僕であるイエスは、人々の罪を自ら負ってくださいました。イエスは、預言の通り、犯罪人として十字架にかけられ、背いた者たちのために執り成してくださいました。イエスの死と執り成しによって、多くの人、すなわち、私たちも含めてすべての人は、罪を赦され、正しい者とされるのです。十字架の主イエスのお姿は、まさしく預言の成就でした。
 どの福音書も、主イエスの他に二人の犯罪人も十字架につけられたことを書いていますが、ルカ福音書だけがイエスと犯罪人の対話を記録しています。その対話を見てみましょう。犯罪人の一人はイエスをののしって言いました。「お前はメシア〔キリスト〕ではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。すると、もう一人の方が彼をたしなめて、自分たちはしたことの報いを受けていること、しかし、イエスには罪がないと言いました。そしてイエスに願い出ました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(43節)。
 洗礼の意味がこの出来事に示されています。洗礼を受けるとは、主イエスと共に十字架に死んで、イエスと共にある新しい関係に入ることです。神の国に入れられることです。犯罪人はもうすぐ地上の生涯を終えます。イエスとの新しい関わりは地上の死においても揺るがないのです。この人は、自分は十字架につけられるほどの罪人だけれども、主イエスの心の片隅に思い出していただけるなら、それで十分だと思っていました。そのような彼にとって、主イエスのお言葉は破格の恵みでした。ここには復活の希望が見えています。考えてみれば、主イエスのお恵みを本当に知るまでは、私たちはイエスをののしった犯罪人と同じことを神に祈っていたのではないでしょうか。「神であるなら、救え」と。しかし、主イエスの恵みを知ったなら、悔い改めた犯罪人と同じようにされます。二人の犯罪人たちも、私たちの姿だと思います。
 主イエスの十字架の上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)。これは、詩編31篇6節の言葉です。主イエスはいつもこのように祈っておられました。イエスがこの祈りをささげる直前に「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(45節)とあります。主イエスの十字架の死によって、神と人とを隔てる幕は取り除かれ、私たちも主イエスのように、神を「父よ」と呼べるのです。この出来事を見た百人隊長のように、神を賛美する者に変えられるのです(47節)。