2023年4月9日(日) 復活節第1主日・復活日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   54年版496(「うるわしのしらゆり」)
主の祈り
交読詩編  詩編30:1~6
祈  祷
使徒信条
聖  書  ルカによる福音書第24章1~12節
説  教  「復活」
賛  美   333
聖  餐
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

(礼拝音声は、聖餐部分はカットしています)
説教要旨

 イースターおめでとうございます。イエスは復活され、今も生きておられます。今年のレントから本日のイースターまで、ルカによる福音書を通して、御言葉に耳を傾けてきました。四つの福音書すべてに、主イエスの復活の出来事が記されていますが、それぞれに少しずつ違いがあります。ルカ福音書の特徴は、イエスが葬られた墓で、御使いを通して、主イエスの言葉が再び語られ、響き渡ったことです。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(7節)。この言葉が、私たちの心にも響き、刻まれますように。
 主イエスは、神の国の福音の宣教において、ご自分のことを「人の子」とおっしゃっていました。「人の子は必ず罪人の手に渡され(ることになっている)」。主イエスは、罪人の手にその身を任せられました。弟子の一人は裏切ってイエスを捕らえる手引きをし、逮捕された時、イエスは弟子たちから見捨てられました。ユダヤ当局の人々やローマ総督ピラトは、罪のないイエスを十字架にかけました。
 「十字架につけられ(ることになっている)」。使徒パウロがこう言っています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。十字架につけられるとは、神に呪われた者として死ぬことです。イエスは十字架で、すべての人の罪を負い、神に呪われた者となられました。それが神の御意志だったからです。イエスは苦難と十字架の死という苦い杯を飲み干してくださったのです。
 「三日目に復活することになっている」とは、自動的にことが進むという意味ではありません。後に、聖霊を受けたペトロがこう語っています。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:24)。「復活することになっている」とは、そのように神に従って、十字架に死ぬ自分を、神がそのままにすることは決してありえない、という神への信頼の言葉でした。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」。その通り、主イエスの言葉が実現しました。
 御使いからこの言葉を聞いたのは、イエスの葬りを完成させたいと願い、香料を持って、墓に赴いた女性の弟子たちでした。御使いはこう語りかけました。「なぜ、生きておられる方〔主イエス〕を死者の中に捜すのか」(5節)。私たちもまた、同じようなことをしてきたのではないか。神が生きて働いておられないかのように思ったり、疑ったりして、動いてしまう。けれども同時に、御使いを遣わしてくださったことに神の憐れみを感じます。主イエスを慕い求めて、墓まで赴いた彼女たちを、神は顧みて、正しく導かれます。神を求める私たちを神は顧みてくださる。大切なことは「(イエスが)お話しになったことを思い出しなさい」。「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(8節)。彼女たちは墓を後にして、弟子たちにこの出来事を伝えました。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」のです(11節)。弟子たちが、復活をすぐ信じられなかったことに、かえって真実味を感じます。復活は、神の働きがなければ信じることはできません。しかし、聞いてきた主の言葉を思い出す時が来ます。復活の主が聖霊として訪れてくださるからです。主イエスの十字架と復活の救いを信じた人には、復活の希望があります。死の先に、イエスと同じ復活の体に生かされる希望です。死の支配から解放され、主のいのちの支配に生かされる希望です。