2023年5月7日(日) 復活節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   483
主の祈り
交読詩編  詩編36:1~10
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第13章42~52節
説  教  「救いは地の果てにまで」
賛  美   528
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 ピシディアのアンティオキアの町のユダヤ人の会堂において、安息日の礼拝で、使徒パウロが説教し、キリストの福音を告げ知らせました。礼拝が終わると、人々はパウロとバルナバを引き止めて、次の安息日にも同じことを話してくれるように頼みました(42節)。さらに集会の後、二人の後についてくる人々もおりました。そこで二人は人々と語り合い、励まし、神の恵みの下に生き続けるように勧めました(43節)。
 こうして、キリストの福音を聞いた人々が、他の人々にも伝えたので、次の安息日には、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来ました(44節)。ここで大切なのは「パウロの言葉を」ではなく「主の言葉」とあることです。説教は、人が語る人の言葉です。しかし、説教者を通して神が語られると信じ、神の言葉として聞かれるものなのです。パウロの説教を主の言葉として受け入れた人もありましたが、一方で、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対しました(45節)。
 恐らく「パウロの話すこと」とは、パウロの説教の次の部分を指していると思われます。「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(使徒13:38~39)。ユダヤ人は律法を守ることで、神と人から認められると信じていました。救われる前のパウロもそのように生きていました。しかし、パウロは、律法では義とされえないし、イエスがキリストであると信じる者は、ユダヤ人でも異邦人でもだれもが皆、義とされる(=救われる)と説教したのです。パウロの言葉は、ユダヤ人には律法を破壊するものと映ったのでしょう。
 けれども、パウロとバルナバはひるむことなく、勇敢に語りました(46節)。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」(46~47節)。二重カギカッコ(『』)の言葉は、イザヤ書第49章6節の引用です。この御言葉は、ルカ福音書第2章で、シメオンが幼子イエスについての言葉で間接的に引用しています。「(幼子は)異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2:32)。ですから、ルカ福音書と使徒言行録を書いたルカは、「異邦人の光」というイザヤ書の預言は、まず主イエスにおいて成就し、さらに、主の弟子であるパウロとバルナバも「異邦人の光」とされている、と理解したのです。
 神のなさり方に驚きます。神の選びの民であるユダヤ人が、「イエスがキリストである」という福音を拒否したために、福音は異邦人に届けられることになったというのです。中近東世界からすれば、地の果ての島国のこの日本にまで、私たちにまで、キリストの福音が、救いがもたらされたのです(イスラエルの救いについては、使徒パウロがローマの信徒への手紙第9~11章で筆を尽くして書いています)。
 「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(48~49節)。ここでも「主の言葉」とあることが大切です。「永遠の命を得るように定められている」とは、神の領域に属することです。キリストの救いにあずかって初めて、それぞれが「私は神から選ばれたのだ」と信仰によって言えることなのです。