2023年5月14日(日) 復活節第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 546
主の祈り
交読詩編 詩編148:1~6
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第14章1~20節
説 教 「生ける神に帰れ」
聖 餐 81
賛 美 361
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
説教要旨
使徒パウロとバルナバの伝道の旅を見ておりますが、決して順調なことばかりではありませんでした。リストラの町では、二人を追ってやって来たユダヤ人と群衆に、パウロは石を投げられ、殺されそうになりました。実際、石を投げた人たちはパウロが死んだと思い、パウロを町の外に引きずり出しました(19節)。しかし、パウロは生きておりました。立ち上がり、なおも伝道の旅を続けました。殺されそうになっても、福音を宣教し続けていく。その力はいったいどこから来るのでしょうか。
「主を頼みとして勇敢に語った」(3節)。これです。自分の力ではありません。主を信頼したからです。我慢には限界があります。しかし聖霊がくださる愛は「忍耐強い。…すべてに耐える」(コリント一13:4、7)。だからこそパウロとバルナバは、勇敢に、大胆に語ることができました。さらに主が憐れんでくださり、「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされ」ました(3節)。
私たちも同じではないでしょうか。キリストの十字架と復活の救いは、完全で、非の打ちどころなく、このキリストの救いに、いつも立ち帰ります。それでも私たちは弱いので、神が折にかなって語られる御言葉、見せてくださる出来事によって、力づけられることがしばしばあります。祈っていたら病が癒されたり、大きな過ちから守られたりすると、神は祈りを聞いてくださると知らされます。たとえ状況が変わらないときでも、主の日の礼拝で、聖書の言葉が新しく語られ、聞かれて、私たちは改めて神が生きておられることを知るのではないでしょうか。
「二人はそこに長くとどまり」(3節)とあります。パウロとバルナバの伝道によって、イコニオンに、主イエスをキリストと信じる人々の群れが起されました。パウロたちが去っても信仰を保ち続けられるよう、信徒たちを養い育てたのです。このことも、忍耐と時間を要します。
イコニオンで伝道し、群れを養い育てていたパウロたちですが、迫害の難を逃れて、リストラやデルベの町に行きました。迫害はあってほしくないことですが、結果として他の町々に福音が告げられ、教会が生まれました。これらの教会が、パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」の宛先の教会であったと考えられています。
リストラの町でも不思議な業があり、迫害がありました。初めに、足の不自由な人の癒しの出来事が記されています。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」(9節)という言葉が少し気になります。この足の不自由な人が、まことの神を正しく受け入れる信仰を認めたということでしょう。パウロを通して神の力が働いて、この人は癒されて立ち上がり、歩き出しました(10節)。
それを見ていた群衆は、癒された人とは対照的に、パウロとバルナバのことを「神々が自分たちのところ降って来られた。ゼウスとヘルメスだ」と言って、二人に動物のいけにえを捧げようとしました。パウロとバルナバはそれを知ると、人々の中に飛び込んで行き、叫んで、やめさせました。パウロは言いました。「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」(15節)。神は天地の造り主、すべてのものは神がお造りになりました。私たちも神に造られた存在です。神は私たちのために、雨を降らせ、実りを与え、食べ物をくださり、喜びで満たしてくださっています(16節)。この神に、唯一の生ける神に立ち帰ります。