2023年6月4日(日) 聖霊降臨節第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   162
主の祈り
交読詩編  詩編8篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第15章12~21節
説  教  「神がまず心を配られた」
賛  美   417
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)



説教要旨

 前回、救いの核心をめぐって、緊急に集められたエルサレムの使徒会議の出来事を見ました。本日はその続きです。使徒ペトロが「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(使徒15:11)と発言すると「全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いて」いました(12節)。
 「あらゆるしるしと不思議な業」とは、病気の癒しも含まれると思いますが、なによりも神の救いです。聖霊が与えられること、教会が生まれることです。「このわたしが救われていること」は、不思議な業。ここに教会があることは奇跡。今、神を礼拝していることは、当たり前ではなく、不思議な神の御業なのです。
 二人の発言の後で、エルサレム教会の指導者であったヤコブが人々に向かって語りました(イエスの12弟子のヤコブは既に殉教しているので(使徒12章参照)、このヤコブは主イエスのきょうだいで、エルサレム教会の指導者になった人)。「神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました」(14節)。シメオンとはシモンの別名で、シモン・ペトロ、つまり使徒ペトロのことです。使徒言行録第15章で気づかされるのは「神」が主語であることです。これが大切です。ペトロもバルナバもパウロも、神の道具として用いられたのです。彼らが用いられ、神が異邦人を救われたことは、「神が初めに心を配られた」、つまり、人間に先立つ神の配慮があったから、というのです。救われたのは不思議な業だ、と申しましたが、私もあなたもここにいることは、先立つ神の顧みがあってのことなのです。神が「異邦人の中からご自分の名を信じる民を選び出し」てくださったから、私たちはこうして神を信じて礼拝をしているのです。
 ヤコブはアモス書の預言を引用しました(15節)。「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ」(16~18節)。ダビデの幕屋(エルサレム神殿)は破壊され倒されるが、世の終わりの時、神が神殿を再建なさるとアモスは預言しました。ヤコブがこの預言を引用したのは、世の終わりが到来し、神殿の再建という神の御業が始まっており、その神殿とは建物ではなくキリストの教会である、と信じたからです。教会は聖霊が宿られる神殿(コリント一3:16~17)、私たち一人ひとりも聖霊の神殿です(コリント一6:19)。キリストの教会が建てられるのは「わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるため」でした。ここに集められた私たちも、主の名で呼ばれる異邦人であり、主を呼び求めている者たちです。先立つ神の配慮によって、私たちはここにおります。
 ヤコブが判断を下しました。「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」(20節)。この決定は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に食卓に着くことができるためのものです。ユダヤ人キリスト者は、異邦人キリスト者に割礼や律法遵守を求めないことを受け入れました。一方、ユダヤ人キリスト者のため、異邦人キリスト者にも配慮を求めたのです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(ローマ15:5~6)とある通りです。