2023年6月11日(日) 聖霊降臨節第3主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   463
主の祈り
交読詩編  詩編108:1~7
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第15章22~35節
説  教  「行くべき道」
賛  美   543
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分はカットしています〕

説教要旨

 皆さんは、手紙を読んで、慰められ、励まされたことがあると思います。シリアのアンティオキア教会に届いた手紙は、そのようなものでした。「彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ」(31節)。この決定が知らされるまで、教会は忍耐強く待ち続けました。 
 事の発端は、アンティオキア教会に、律法を守り割礼を受けなければ救われないという意見の人々と、イエス・キリストの恵みによって救われるという意見の人々との激しい対立が起こったことです。教会はエルサレム教会に判断を仰ぐことに決めて、パウロとバルナバと数名を送り出しました(使徒15:1~2)。
 現代は、インターネットなどで瞬時に情報が世界中に届きますが、初代教会の時代は、シリアのアンティオキアからエルサレムへ行くだけでも何日もかかります。アンティオキア教会はひたすら待ち続けました。しかも、指導者であるパウロとバルナバを送り出したのですから、頼りにする先生たちが不在でした。これはアンティオキア教会にとって大きな試練であったと思います。
 パウロとバルナバが戻ってきたとき、彼らと共に、エルサレム教会からバルサバと呼ばれるユダおよびシラスが同行していたことは(22節)、アンティオキア教会にとって大きな喜びでありました。「バルサバ」とは「安息日(サバス)の子(バル)」という意味です。つまり、バルサバと呼ばれるユダはエルサレム教会のユダヤ人キリスト者の代表です。一方シラスは、ローマ帝国の市民権も持っており(使徒16:37)、異邦人キリスト者あるいはギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者の代表ということです。この二人が同行したとは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、福音によって共に生きられる、という目に見えるしるしでした。
 エルサレム教会は、使徒会議の決定の通り、福音に根差した教会の営みがなされるために、使者を派遣して心を配ったのです。
 それは手紙の文面にも表れています。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします」(23節)。主イエスが世に来られ、救いをもたらされ、人々がイエスを主と信じるようになるまでは、この手紙の挨拶はありえないことでした。ユダヤ人は異邦人と付き合うことはなかったからです。しかし今、イエスをキリストと信じる者とされ、神の子とされ、「兄弟として」「異邦人の兄弟たちに」と挨拶ができるようになったのです。「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです」(26節)とは、二人がエルサレム教会から教会の指導者として改めて権威を与えられたことを示しています。示された教会の秩序を重んじるようにということです。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」(28節)。キリスト者が負うべき重荷は、自分の十字架であり、愛の重荷だけだからです。
 こうして、ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も共に主の食卓を囲み、共に食事をし、共に交わりに生きられるようになりました。この手紙と、ユダとシラスの来訪は、アンティオキア教会にとって大きな慰めと喜びでした。
 私たちにとって、まことに大きな慰めと喜びの手紙とは、主イエス・キリストご自身です。教会は「イエスは主である。イエスが救い主である」という福音に生きます。体の隅々にまで血液が行き渡るように、キリストの体である教会の隅々にまで福音が行き渡り、教会の実際の営みも福音に根差したものとなるように配慮する。そのとき、私たちもまた他の人々にとって、慰めと喜びの手紙のような存在にならせていただくことでしょう。