2023年7月2日(日) 聖霊降臨節第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 549
主の祈り
交読詩編 詩編119:129~136
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第16章6~15節
説 教 「主が心を開かれた」
賛 美 280
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
本日の聖書箇所には、気になる表現があります。「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」(6節)や「イエスの霊がそれを許さなかった」(7節)とは、いったいどういうことか、具体的なことは一切書かれていません。パウロとシラスとテモテは、アジア州で御言葉を語ろうとしたけれども、阻まれてしまう。ビティニア州に入ろうとしたけれども、それができない。恐らく、何らかの神の圧倒的な介入の出来事があったのでしょう。
考えてみれば、信仰生活でも、教会の歩みにおいても、同様のことがあるのではないでしょうか。御心に適うこと、良いことだと思われる。しかしどうしても道が開かれなかった。それは聖霊が禁じられたからかもしれません。そういうことも起こりうると知ること。救いは神の御業であり、聖霊は自由に働かれます。
パウロとシラスとテモテはこの試練の中で祈ったでしょう。彼らはトロアスに下っていきました。トロアスは現在のトルコ北西部のエーゲ海沿岸の港町です。海を越えればギリシャ(ヨーロッパ)です。トロアスに到着すると、主の導きがありました。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った」(9節)。本日の聖書箇所で、もう一つ気になる表現は「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(10節)とある通り、ここ以降、使徒言行録にたびたび「わたしたち」が出てくることです。パウロとシラスとテモテの伝道チームに著者ルカが加わったという可能性が高いと思われます。パウロが幻に見たマケドニア人はルカであったという説もあります。伝道チームは、海を越えてマケドニアに向かいました。
マケドニアといっても広いです。どの町に行くのかはパウロたちの判断があったと思われます。伝道チームはローマの植民都市フィリピに行きました。そこに次の導きがありました。安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで。ユダヤ教の礼拝の日)に、彼らは、ユダヤ人が祈るために集まる川岸に行きました。フィリピにはユダヤ人の会堂はなかったようです。女性たちが主であった祈りの集会でした。そこに「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていた」のでした(14節)。ティアティラはトルコ西部にある町です。「神をあがめる…婦人」という表現から、リディアはユダヤ人ではなく異邦人であることが分かります。リディアがどのようにして、ユダヤ人の神を礼拝しようと思うに至ったのか、分かりません。ただ、リディアがユダヤ人の礼拝に加わっていたことに、まことの神を求める強い気持ちがあったのではないかと感じます。パウロたちは祈りの集会で「集まっていた婦人たちに話をした」(13節)。イエスがキリストであるという福音を語ったのでしょう。そのとき「主が彼女〔リディア〕の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(14節)のでした。福音の言葉は、主が心を開いてくださることによって届きます。救いは、人間の力にはよりません。リディアは、イエスが主であると信じ、告白し、家族にも伝え、「彼女も家族の者も洗礼を受け」ました(15節)。このリディアの家がフィリピの教会の拠点になりました。予期せぬ出会いでした。ユダヤ人の会堂もなく、有力そうな男性もおらず、女性が大半の集会でしたが、教会は始まりました。これが、神のなさり方だと思います。「わたしは神様の手の中の小さな鉛筆にすぎません。神が考え、神が書くのです」(マザー・テレサ)。