2023年7月9日(日) 聖霊降臨節第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   493
主の祈り
交読詩編  詩編3篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第16章16~40節
説  教  「主イエスを信じなさい」
賛  美   533
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声では聖餐部分をカット〕

説教要旨

 昨日の川口がん哲学カフェ「いずみ」で、内村鑑三の「勇ましい高尚なる生涯」という言葉を知りました。『後世への最大遺物』という内村の講演の言葉です。「…この世の中は失望の世の中ではなく、希望の世の中であると信じること…この世の中は悲嘆ではなく、歓喜の世の中であるという信念のもと日々に研鑽し、その生涯を世の中へ贈り物としてこの世を去る―。つまり金や地位や名誉にとらわれず、どのような境遇にあっても、希望と喜びのために生きる努力を続けるまじめな生涯こそ、『勇ましい高尚なる生涯』であり、もっとも価値のある後世への贈り物だというのです。…」(樋野興夫著『いい覚悟で生きる』より)。
 本日の聖書箇所から驚かされるのは、真夜中に、闇の中、獄中で、パウロとシラスが賛美の歌をうたっていたことです(25節)。どうしてそのようなことができたのか。二人の姿はまさに「勇ましい高尚なる」姿です。パウロとシラスはいちばん奥の牢に入れられ、足には木の足枷(あしかせ)をはめられました(24節)。ある解説には、この足枷は両足を開いて止めるもので、囚人を安らかに眠らせないためであった、とありました。私たちは眠れないだけでも心配になり、それが続くと不安が大きくなります。パウロとシラスはどんなに厳しい状況であっただろうか。しかし、その中で二人は賛美の歌をうたっていました。
 主の約束があります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。パウロとシラスは主イエスの弟子です。獄中であっても、そこにはキリストが共におられ、獄中であっても神を仰いで、礼拝がささげられ、教会の交わりがあったのです。賛美には力があります。賛美は神を呼ぶことです。私たちは、パウロほどの過酷な経験はしないかもしれませんが、どうすることもできない苦難に見舞われたとき、神を呼び求め、祈って過ごしたのではないでしょうか。
 パウロとシラスはどうして牢に入れられたのでしょう。パウロたちが、占いの霊に取りつかれた女奴隷に出会ったのがきっかけでした(16節)。パウロが、キリストの名によって女奴隷から占いの霊(悪霊)を追い出すよう命じると、そのとおりになりました。キリストが女奴隷を霊から解放し、癒してくださいました(18節)。ところが彼女の主人たちが、占いができなくなったので、パウロとシラスのことを「町を混乱させている」と言いがかりをつけて、役人に訴え出ました(19~21節)。その訴えに群衆が扇動されて、高官たちは取り調べも裁判もしないで、パウロとシラスを鞭で打ち、牢に入れてしまいました。二人はつぶやくこともなく、奇跡を願うことなく、獄の中でただ賛美し、祈っていました。他の囚人たちはその歌に聞き入っていたのです。
 突然大地震が起こりました。地震によって、牢の戸が開き、囚人の鎖も外れてしまったのに、だれも逃げませんでした。囚人が逃げたと思い込んで、自殺しようとした看守をパウロが止めました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)。看守は、パウロとシラスを外へ連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。2人は看守を信仰へと招きました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。看守は、その言葉に従って、自分の家族のところへパウロとシラスを連れて行き、主の言葉を聞いて、信じ、洗礼を受けました。真夜中にもかかわらず、食事の席が設けられ、2人を迎えて、「食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」(34節)。主の食卓(聖餐)も備えられたのかもしれません。ローマの役人である看守が、このようにして救われるとは、神のなさることは不思議です。