2023年7月30日(日) 聖霊降臨節第10主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   57
主の祈り
交読詩編  詩編1篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  コリントの信徒への手紙一第14章1~4節
説  教  「教会を造り上げる愛の言葉を」
賛  美   476
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨〔説教者:島隆三師〕

 コリント一第14章のキーワードは「造り上げる」。ギリシャ語で「オイコドメオー」、もともと建築の用語で、家を建てるとか、土台を据えるという意味で、そこから「徳を建てる、高める、人間を成長させる」という意味が派生した。
3節に、「(預言する者は)人を造り上げ、励まし、慰めます」とあり、個人を造り上げ、励まし、慰めるとともに、4節では「預言する者は教会を造り上げます」とある通り、個人だけではなく、教会を造り上げることの大切さを第14章でパウロは語っている。
クリスチャン・アシュラムを始めたスタンレー・ジョーンズの名言に、「私から始まらないキリスト教は始まらないが、私で終わるキリスト教はお終いだ」。
 神は絶えず、共同体を目指している。これは聖書に一貫しているから、旧新約聖書に親しんでいる方はすぐわかる。私たちの場合、共同体はキリストにある共同体、すなわち教会だ。だから、初めは「私」にしか関心がなかったとしても、教会に連なる間に、自然に共同体意識に目覚め、「教会を造り上げる」ことの大切さがわかる。では何が教会を造り上げるのか。
 教会という場合、言うまでもなく建物ではない。教会とはキリストを信じる私たち一人ひとり、パウロはコリント一第12章で、教会を、一つの体と手や足、目、耳に譬えて、巧みな教会論を語っている。
 しかし、今朝、私はあえて建物である教会の話から始める。教会は建物ではないが、建物はどうでも良いとは言えない。私の恩師であった更生教会の安倍豊造師は、教会堂の大切さをよく語っておられた。日本のような異教社会において、「建物が伝道する」という。そして、中野区の更生教会の場合、前大戦で会堂を消失し、新会堂を建てねばならなくなったとき、苦心惨憺して妙正寺川という小川の河川敷(湿地帯)を安い値段で買い求めて、そこに小さな白い会堂を建てた(1949年)。戦後の荒廃した世の中で、夢のような可愛い会堂だった。地域の人々は、小川のほとりに何ができるのだろうと興味津々で、写真を撮りに来る者もあった。
 その後、会堂は拡張され、会堂の変遷もあったが、私と静江が伝道師として更生教会に招かれたのは1969年だったから、すでに20年が経ち、雨漏りが酷くて、礼拝堂の床も傾いていた。そこで幼稚園もやっていたのだから、新会堂の建設は焦眉の課題で、私は教会創立50周年(1979年)に新会堂を建てようと皆さんに訴えて、皆で献金に励み、会堂建設の具体的な計画が進められていった。
 ところが、その計画が暗礁に乗り上げた。会堂と園舎の設計はS教会員の1級建築士に依頼した。教会員にはアンケートを取り、各部から多くの希望が出された。しかし、敷地と予算は限られているから、設計者も随分苦労したが、素案が固まったところで、役員会に建築士も陪席してもらい話し合った。ところが、教会の中心的な役員と建築士との間で意見が衝突して、「それなら私は設計を降ろさせていただきます」と突然辞任された。計画がストップしてしまった。最後は牧師の責任だ。牧師の不手際で、教会全体をまとめることができなかった。私も悩んだ。その時、私の大きな力となり、励ましとなったのは、教会の古くからの3人の役員の兄弟たちだった。多くを語るわけではないが、若い私を全面的に信頼し支えてくれた。「どうぞ、先生の信ずるままになさってください。私たちは先生を支え、ついていきますから」。この一言は、若い未熟な牧師を励まし、立たせるに十分な力があった。
 「教会を造り上げる愛の言葉を」ということは、具体的にはそういうことではないか。心から心配して言ってくれる一言、その心が伝わる。ここにある「愛」は、アガペーの愛で、今朝の早天祈祷会でも学んだが、コリント一第13章にある通り「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、…」と15の特質をパウロは挙げている。これらの愛の言葉が、本当に人を励まし、立ち上がらせる。今は私の例で申し上げたが、牧師だけではなく教会員同士で、また、牧師と教会員の間に愛と信頼があるときに、その何気ない一言が、相手を生かし、教会を生かすのだ。だから、第14章1節では「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と勧められている。第14章は、預言と異言に絞って語られているが、言葉の大切さ、その重みを、改めて教えられる。