2023年8月6日(日) 聖霊降臨節第11主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   6
主の祈り
交読詩編  詩編148篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第17章16~34節
説  教  「天地の主を知る」
賛  美   226
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 本日の聖書箇所に記されている説教は、パウロのアレオパゴスの説教と呼ばれています。使徒言行録の他の説教と異なります。それは説教の聴き手が違うからです。古代から現代まで、影響を与えてきた哲学を生み出したアテネの町。そのことを誇りにしていた人々に、パウロは伝道説教をしました。
パウロがアテネに来たのは、テサロニケやベレアでの迫害を逃れるためでした。パウロは、伝道の同労者であるシラスとテモテを待って、アテネに滞在していましたが、「この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨」しました(16節)。じっとしていられない。まことの神を知ってほしい。その思いは私たちも持っています。そうでなければ伝道できません。
 パウロは「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合って」いました(17節)。当時の「広場」は公共的な空間であり、議論することも日常のことでした。パウロは、広場でも福音を宣べ伝えました。そこには哲学者もおり、パウロと討論しました。パウロが余りにも「イエス」と「復活」(ギリシア語で「アナスタシス」)と繰り返すので、「イエス」や「アナスタシス」という神がいると思われたようです。その中の人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行き、話しを聞きたいと言ってくれました(19~20節)。「アレオパゴス」とは、アクロポリスの神殿に向かい合っている丘であり、また有力者が集まる評議会のことでもあります。
 これに続く言葉が心に留まりました。「すべてのアテネ人…は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」(21節)。現代の日本でも、新しいことを知りたいという人は多いと思います。しかし一方で、面白くなければ、ひととき楽しんで終わりです。また次の新しいことに移って、真理に心を動かされることがない。新しいことを知ることが悪いとは思いませんが、「それだけで時を過ごしていた」で終わってしまって、それが人間の生き方なのでしょうか。日本では、キリスト者は人口の約1パーセントいると言われます。しかし、聖書を持って、読んだことのある人はもっとたくさんいます。3割いると言う先生もおられます。また、キリスト教主義学校(高校と思いますが)は、高校全体の約1割あるそうです。ですから、聖書に触れている人は少なくないのです。しかし、本当に神を知ったのなら、信仰を持つはずです。ですから聖書について誤解があるのです。伝道とはその誤解を解くということでもあります。
 パウロに説教する機会が与えられました。パウロは、アテネの町にたくさん偶像があるのを見て憤慨していましたが、与えられた機会を喜んで語ったと思います。「あなたがたは信仰にあつい方々である。なぜなら、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたから」と語りました(22~23節)。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主です…すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神…です」(23~25節)。
 古代では、像が神の居場所であると考えられていました。言い換えれば像のあるところにしか神はいない。しかし、聖書の神はそうではありません。天地万物を創造され、「わたしは主」(出エジプト20:2ほか)と、自ら名乗りを上げて、民に出会い、私たちに出会ってくださる方です。パウロの説教を聴いている一人ひとりにも命を与えてくださったまことの神、この神を知ってほしい、この神に立ち帰ってほしい。パウロの燃える心が伝わります。天地の主こそ、唯一のまことの神です。