2023年8月13日(日) 聖霊降臨節第12主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   361
主の祈り
交読詩編  詩編113篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第17章22~34節
説  教  「神は待っておられる」
賛  美   430
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカット〕

説教要旨

 本日も、パウロのアレオパゴスの説教に聴きます。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」(22節)。私たちも伝道するときに、パウロのように語るのではないでしょうか。今は、既成宗教に集まる人は少なくなっていますが、日本人が宗教心を失ったとは思いません。占いや「スピリチュアル」とつくものは盛んです。人間を超えた大いなる存在に関心がある人は大勢おります。
 パウロは、「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえ見つけた、と言って、あなたがたが知らない神をぜひ知ってほしいと語ります。創造主である神を紹介します。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主です…すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神…です」(24~25節)。私たちも、聖書の神は、造り主であられると語るのではないでしょうか。すべての人を造られたのは天地の主です。人は神に似たものとして、神によって造られました。仏教徒でもヒンズー教徒でも、無神論者でも、教会の信仰に生きる私たちは、すべての人が神によって造られたと信じており、だからこそ私たちは一人ひとりに敬意をもって接するのです。
 「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。この「一人の人」とは創世記によれば、アダムのことです。「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。なんと慰めと励ましに満ちた言葉ではないでしょうか。神は高みから人間を見下しておられるのではなく、近くにおられます。「あなたがたが親しんでいる詩人たちも『我らは神の中に生き、動き、存在する…我らもその子孫である』と言っているではありませんか」とパウロは語ります(28節)。「わたしたちは神の子孫なのです」(29節)とは、命の源は神であるという意味です。ですから「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」(29節)。しかし、私たち人間は、まことの神に出会うまで、本当には神を知ることができない。ですから、神ではないもの、つまり偶像を拝むしかない。神を知らずに、神を求めているのが人間です。神を求めて、渇いているのです。
 神は、神でないものを神とする無知な時代を大目に見てくださっていましたが、その罪を放っておくことはなさいません。神を求める自分たちの心をごまかして、偶像を造り上げてしまい、それで満足してしまう罪は、裁きを免れないのです。神は「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになった」のです(31節)。この「一人の方」とは主イエス・キリストです。キリストは死者の中から復活して、今も生きておられ、神のお決めになられた日に、裁くためにおいでになります。ですから、悔い改めて罪を赦していただきなさい、とパウロは招いているのです。私たちも招かれています。
 パウロの話を聞きたいと言っていた人々ですが、死者の復活ということを聞くと、パウロを馬鹿にする人や拒否する人がいました(32節)。しかし、救われた人もいました。アレオパゴスの議員ディオニシオやダマリスの名が記されています(34節)。
 これから聖餐にあずかりますが、聖餐こそ「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)という恵みを告げています。キリストは、その体と血を差し出し、私たちに食べられてしまってもよいほどに、私たちの近くにおられる。私たちを住まいとし、内に住んでくださいます。この神が、悔い改めて立ち帰るよう、待っておられるのです。