2023年9月24日(日) 聖霊降臨節第18主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   443
主の祈り
交読詩編  詩編8篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ヘブライ人への手紙第2章5~9、14~18節
説  教  「キリストの救いとは」
賛  美   522
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 原則として月に一度、日本基督教団信仰告白〔以下、教団信仰告白〕に沿って説教を始めております。本日は、教団信仰告白の前半部分の第2段落の後半の文章を見ていきます。「御子(みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり」。直前の信仰告白の文章では、聖書の神が父・子・聖霊の三位一体の神であることを告白しています。御子とは子なる神です。子なる神が人となられました。それを記念し、祝うのがクリスマスです。人となられたことには目当てがありました。「我ら罪人の救いのため」です。その救いは御子が「十字架にかかり」、成し遂げられた救いです。
 日本の多くの教会では、教会堂にも礼拝堂にも十字架を掲げています。普通の民家のように見えても十字架が掲げてあれば教会だと分かります。教会はなぜ十字架を掲げているのでしょう。十字架とは何でしょう。十字架は、本来、見せしめの死刑の道具でした。どうして、そんな死刑の道具を教会は掲げているのでしょうか。それは、御子であられる主イエス・キリストが十字架におかかりになったからです。教会は、十字架のもとに皆が集められ、十字架のもとで礼拝し、祈ります。それは、私たち人間がキリストを十字架に追いやるほどの罪人であることを示しています。同時に、キリストは、十字架にかかることを良しとされるほどに、私たちを愛してくださった。主イエスの命と引き換えにするほど私たちの罪は大きく、主イエスが命を惜しまれなかったほど、私たちに対するキリストの愛は大きい。ですから、十字架はキリストの私たちに対する愛のしるしとなりました。だから、教会は十字架を掲げているのです。
 今日、取り上げた教団信仰告白の確証となる聖書の言葉はたくさんありますが、本日は、ヘブライ人への手紙第2章を開きます。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」(14節前半)。イエスとは地上を生きられた御子の名です。御子が人となられた出来事が示されています。さらに「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節後半~15節)。「我ら罪人」の現実が示されています。私たち人間は神の目には「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」でした。主イエス・キリストがご自身を十字架にささげてくださったことにより、悪魔は滅ぼされ、わたしたちは解放されました。
 「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」に関連して、同じヘブライ人への手紙第10章の御言葉を読みます。「キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(12~14節)。ただ一度、唯一の完全な献げ物〔キリストご自身〕が献げられました。この救いは、完全で、永遠です。キリストの贖いが永遠に有効であり続けるのは、キリストが復活し、今、神の右の座におられ、執り成し続けてくださっていることに依ります。旧約聖書の規定では、奴隷を買い取って別の主人のものとするとき、あるいは自由な身にする時に代価を払います。それが「贖い」の意味です。私たちは、キリストが、自らご自身を代価として払ってくださったので、神のものとされ、死と罪と悪魔の力から解放されて自由にされました。この大きな恵みを伝える使命が私たち教会にあります。