2023年10月1日(日) 聖霊降臨節第19主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   51
主の祈り
交読詩編  詩編66:1~9
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第20章1~12節
説  教  「騒ぐな、まだ生きている」
賛  美   409
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた」(7節)。今、社会もだいたい日曜は休みであり、私たちはこうして日曜の朝に礼拝の恵みに与っていますが、初代教会の時代は、日中は働いていますから、夜に集まって礼拝をしました。パンを裂くため、すなわち、聖餐が行われていました。
 「わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた」(8節)。これは、実際の光景であると共に、教会のイメージではないかと思います。外は夜であり、この世は闇のような世ですが、教会には光があります。救われた私たち一人ひとり、キリストの恵みの光をいただいておりますが、吹けば飛ぶような弱い存在です。そんな私たちですが、一人ひとりが主のもとに集められると、たくさんのともし火で明るくなる。その光は、この世にはなく、教会にしかありません。今、こうして主なる神の前に集められている礼拝者の姿は、闇の中に輝くたくさんのともし火のようです。
 トロアスでの集会は、夜遅くまで続きました。使徒パウロがエルサレムに向かうことが分かっていたからでした。お互い、もう二度と会えないかもしれません。かけがえのないひとときでした。使徒パウロとしても、自分はエルサレムへ行く、しかし、この町の主の弟子たちは、ここでしっかりと信仰に立って生きなければならない、だから、神の言葉を語り続けたのだと思います。
 「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて…」(9節)とあります。階上の部屋には大勢の人が集まったので、年若い者は窓に腰を掛けたのかもしれません。日中の働きを終えて集まっていますから、疲れもあり、説教は長くて終わりそうもなく、つい居眠りをしてしまったのかもしれません。今も昔も同じです。ここまではユーモラスな光景です。
 ところが悲劇が起きました。青年エウティコは「三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた」(9節)。教会の集会のただ中で、誰が悪いわけでもなく、突如、死が入り込んできました。私たちはこの出来事がどう続くかを知っていますから、そんなに動揺しませんが、もし9節で終わっていたら、どうなるのでしょう。まさにここにおいて死が入ってきたら、私たちはどうするのでしょうか。それが問われていると思います。
 使徒パウロはどうしたでしょうか。「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み」(10節)です。青年エウティコの上に、パウロはかがみ込んだのです。このパウロのしぐさは、預言者エリヤの出来事を思い起こさせます(列王記上17:21~22)。彼が滞在していたやもめの子が死んでしまいました。エリヤは子供の上に身を重ねて、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈ると、主なる神は、その子の命をもとにお返しになり、子供は生き返りました。この出来事に似ています。
 パウロは祈りのうちに、青年エウティコを抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言うことができました。神が、エウティコの命をお返しくださったからでした。エウティコを抱きかかえたパウロの腕は、主イエス・キリストの御腕のしるしです。死の前に無力でなすすべがない、それが人間の現実です。しかしその無力な私たちは、死の腕ではなく、主イエス・キリストの復活のいのちの御腕に抱きかかえられているのです。私たちは、キリストのいのちの御腕に中にいるのです。エウティコは「居眠りした青年」ではなく「生き返った青年」(12節)と呼ばれています。ここに教会に対する神の憐れみが示されています。