2023年10月8日(日) 聖霊降臨節第20主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   206
主の祈り
交読詩編  詩編27:1~6
祈  祷
日本基督教団信仰告白
聖  書  使徒言行録第20章12~24節
説  教  「決められた道を走る」
賛  美   516
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔録音は聖餐部分をカットしています〕

説教要旨

 本日は、日本基督教団の行事暦で「神学校日・伝道献身者奨励日」ですが、本日の聖書箇所の、エフェソの長老たちへ惜別説教を語る使徒パウロの言葉は、神学校日・伝道献身者奨励日にふさわしい御言葉だと思います。
 パウロと同労者たちは、ミレトスの町へ移動しました。パウロは、できれば五旬祭(聖霊降臨日に当たるユダヤ教の祝祭)にはエルサレムに着いていたいと考えていました。アジア州を去るにあたり、パウロはミレトスからエフェソに使いを出し、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せました(17節)。長老たちが集まって来たとき、パウロは別れの説教を始めました。
 「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」(18~19節)。伝道者の生涯を一言でいえば、ここにあるとおり「主に仕える」。この一事です。伝道者だけでなく、主の弟子とされた私たちも同じです。
 先月末、日光オリーブの里アシュラムに参加しました。アシュラムの挨拶ともなっている「イエスは主である」は、聖霊によらなければ言えない言葉であり、それは同時に「私はしもべである」ということです、と教えられ、その通りだと思いました。
 自分がどのような姿で主に仕えてきたか、あなたがたはよく知っているはずだと、使徒パウロはエフェソの長老たちに語ります。「全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら」です。全く小さい者であり、無力な者、弱さをかみしめて歩んできたのです。いつも雄々しく、堂々としていたわけではありません。パウロは、同胞への伝道もしましたが、その同胞であるユダヤ人が自分を迫害し、時には殺害計画の陰謀まで企てました。パウロは数々の試練に遭いましたが、主に仕え続けました。
 「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(20~21節)。「公衆の面前でも」では、アテネのアレオパゴスの丘で説教したパウロや、エフェソで講堂を借りて毎日伝道したパウロを思い出します。救われて弟子とされた者たちが、自分の家を提供して礼拝をしていたので、パウロは家での集会でも福音を語りました。その福音とは、神に対する悔い改めヘの招きであり、私たちの救い主、主イエスに対する信仰への招きです。同胞であるユダヤ人にもギリシア人(非ユダヤ人。外国人という意味)にも、パウロは福音を力強く語り、主を証ししてきました。
 そして、今、パウロは、「“霊”に促されてエルサレムに行きます」(22節)と語ります。聖霊が苦難を予告しておられます(23節)。けれども「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(24節)。エフェソの長老たちも厳粛な思いで、パウロの言葉を聞いたと思います。このときのパウロにとって、「自分の決められた道」とはエルサレム行きであり、またローマ行きでした。エフェソの長老たちにとっては、エフェソの町で信仰に堅く立って生きることでした。キリスト者は、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を使命として生きるのです。神が、それぞれにふさわしく決めてくださった道を行くことが、私たちにとってまことに祝福であり、確かなことなのです。