2023年10月15日(日) 聖霊降臨節第21主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   58
主の祈り
交読詩編  詩編85:9~14
祈  祷
使徒信条
聖  書  使徒言行録第20章25~38節
説  教  「キリストの代理として」
賛  美   573
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 使徒パウロの惜別の説教が続いています。パウロは、エルサレムに行くこと、そのあとローマに行くことを聖霊の導きによって、神の御計画と信じました。そこで、エフェソの教会の長老たちをミレトスの町に呼び寄せて、改めて大切なことを語りました。パウロは、もう決してエフェソの町を訪問することはないと悟り、また殉教を覚悟していたからです(使徒20:24より)。
 「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(26~27節)。
 パウロは、神の救いのご計画を余すところなく語ったので、もし、福音から離れ滅びる人がいても、それは自分の責任ではない、と言いました。大胆な発言だと思いますが、伝道者も教会もそう言えるはずです。教会は伝道する。それは福音の言葉の種蒔きであり、福音を聞いた人がどのように生きるかは、その人と神との関係だからです。私は今、説教していますが、私も語りつつ、神の言葉を聞いています。どう聞くかに注意することです。
 パウロはエフェソの長老たちに語ります。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。長老や教会の指導者に求められていることは、まず自分自身に気を配ることです。その上で、群れ全体に気を配るように求められています。自分が変わることなしに、他の人を変えようするのは矛盾しています。しかし、私たちはともするとそのようにしがちです。まず自分からです。指導者は、聖霊によって選ばれ立てられたのです。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるため」に。「御子の血によって」はキリストの贖いの業です。旧約聖書では、奴隷を買い取って別の主人のものとするとき、あるいは自由な身にするとき、代価を払います。それを贖いと言いました。私たちは、キリストがご自身を代価としてくださったので、神のものとされ、死と罪と悪魔の力から解放されて自由にされました。神のものとされた者、神の子たちが集められ、神の教会を形作っています。その神の教会の世話をさせるため、聖霊が指導者を選ばれるのです。
 「世話をさせる」という言葉から、ヨハネによる福音書第21章15節以下の、主イエスがペトロを立たせてくださった出来事を思い起こします。使徒ペトロが主イエスを3度否定した過ちを覆うように、主イエスはペトロに3度「わたしを愛しているか」とお尋ねになりました。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、「主イエスがすべてをご存じである」という信仰に立ちました。神の選びは、素晴らしいことができるとか、立派だからというのではないのです。自分さえ気づいていない自分の弱ささえ、主イエスは既にご存じで、赦し、愛で覆ってくださっていた。復活の主イエスからそれを知らされたからこそ、ペトロは立ち上がれました。そのペトロにイエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。指導者はキリストの代理として群れの世話をするのです。
 主イエスが十字架の苦難を避けられなかったように、キリストの体である教会も、世にある間、苦難に遭います。「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らす…邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(29~30節)と、パウロは予告しました。聖霊の助けをいただき、キリストの福音にしっかりと立ち、教えられたことを常に思い起こして、目を覚まして、祈ることです(31節)。