2023年10月22日(日) 聖霊降臨節第22主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編34:1~11
祈 祷
使徒信条
聖 書 使徒言行録第20章25~38節
説 教 「与える幸いに生きる」
賛 美 505
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
使徒パウロは、エフェソの教会の長老たちをミレトスの町に呼び寄せて、別れの説教をしています。パウロは、二度とエフェソを訪れることはできないこと、殉教も覚悟していました。パウロが、エフェソの教会を離れることができるのは、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32節前半)という信仰があったからでした。教会の群れをゆだねる先は、神とその恵みの言葉です。福音の言葉であり、キリストの救いの言葉です。32節のこの言葉は、教会の伝統においては、臨終の言葉として用いられてきました。愛する者を残して地上の生涯を終えようとする者が、この言葉を告げました。私たちも同じようこの御言葉を語ることができます。人の立派な働きが教会を確かにするのではなく、神とその恵みの言葉が教会を守ってくださるのです。
「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」(32節後半)。「造り上げる」という言葉は、今年の教会アシュラムで取り上げられたコリントの信徒への手紙一第14章に何度も出てきました。建物を建て上げるという意味があります。神の言葉が、神の教会を造り上げます。「聖なるものとされた」私たちです。「神が御子の血によって御自分のものとなさった」(28節)から、主イエスの十字架で流された血によって罪を洗い清められたから、聖なるものとされた私たちです。神の言葉が、聖なるものとされた私たちに神の恵みを受け継がせてくれるのです。
「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」(33節)。ここからパウロは貪欲に気をつけるように、主イエスにならい、『受けるよりは与える方が幸いである』という生き方に改めて教会の人々を招きます。パウロ自身、テント造りを職業として、自分の生活のためばかりでなく、教会の中にいる弱い者を助けるためにも働きました。
主イエスはしばしば、貪欲に気をつけるよう語っておられます。ルカ福音書第12章の「愚かな金持ち」のたとえもそのひとつです。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは…言った。『…倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。…」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(ルカ12:16~20)。この金持ちはある面、収穫は増えて、大きな倉を建てることができた成功者なのではないでしょうか。けれども、「人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)ことを知りませんでした。命は神の御手の中にあり、神は、「神の前に豊かになること」(ルカ12:21)を私たちに求めておられます。
キリストに救われた私たちは、実は、既に豊かにされているのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリント二8:9)。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(コリント二9:8)。だから、私たちは与える幸いに生きることができるのです。
「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った」(36節)。立って祈る習慣がありましたから、皆が一緒にひざまずいて祈るとは、異例のことでした。かけがえのない別れのときだからでしょう。パウロとの別れを悲しむ人々の姿に、かえって愛の共同体に生きていることが伝わってきます。