2023年10月29日(日) 降誕前第9主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 208
主の祈り
交読詩編 詩編20篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 エフェソの信徒への手紙第1章3~14節、第2章8節
説 教 「恵みの選びと信仰」
賛 美 458
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
原則として月に一度、日本基督教団信仰告白〔以下、教団信仰告白〕に沿って説教を始めております。本日は、教団信仰告白の前半部分の第3段落の前半の文章を見ていきます。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ」。神の恵みの選びと、ただ信じることによって神に義と認められる、いわゆる「信仰義認」(信仰による義)が告白されています。
明後日の10月31日は宗教改革記念日です。私たちの教会も連なっているプロテスタント教会のルーツとなる出来事を記念しています。1517年10月31日に、カトリックの修道士マルティン・ルターが、九五箇条の提題をヴィッテンベルグの城教会に掲げました。ルターは当時の教会が発行した贖宥状を批判しました。福音にのっとっていないものであったからです。これを契機に教会改革の波が広がり、プロテスタント教会が生まれました。
ルターは、堕落した教会を自分が改革するのだ、という思いで教会を批判したのでありません。ルターは修道生活の祈りの中で、教団信仰告白にある通り、人は、行いによらず、神の恵みによってのみ、信仰によってのみ救われる、という福音を発見しました。この福音を見出すまで、ルターは誰よりも修行に励む人でした。励んでも励んでも、救いの確信も平安も得られずに苦しみ、苦しみから逃れようと、よりいっそう厳しい修行を行って生きていました。そのようなルターでしたが、神の導きの中で、人はキリストを信じる信仰によって罪を赦され、義と認められる(神に義(よし)と言っていただける)という、聖書の御言葉をそのまま信じることができました。ルターは救いの確信と平安を得て、苦しみから解放されました。この福音の真理に立って、ルターは当時の教会のあり方に声を上げたのでした。
本日は、エフェソの信徒への手紙第1章3節以下の御言葉から、神の恵みの選びの御業を改めて知りたいと思います。神が私たちを選んでくださったとはっきりと語っているのは4節です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)。途方もない言葉に驚きます。自分自身が存在してないとき、「天地創造の前に」、既に神によって自分が愛されており、キリストにおいて選ばれていたとは、何ということでしょうか。神は時間も空間も超越しておられます。私たちは理性で納得してではなく、信仰によって、この御言葉を信じます。さらに「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここも神の選びが語られています。私たちを神の子にしようと、神がお決めになられました。
私たちはそのままでは、神のもとに行くことができません。私たちは罪人ですから、罪のあるままでは神の前に出られないのです(罪人の現実については、エフェソの信徒への手紙第2章の冒頭にありますから、ぜひお読みください)。ですから、神が私たちを「聖なる者、汚れのない者に」なさる必要がありました。そのために御子である主イエス・キリストの十字架の贖いが必要でした。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(7節)とある通りです。「贖い」とは、代価を払って買い取られるという意味です。キリストの命という代価が払われて、私たちは聖なる者とされました。キリストの血で洗い清められて、汚れのない者とされました。キリストのゆえに神の子とされ、神を「父よ」と呼べるようになりました。さらに「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(11節)。私たちは「相続者」です。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)。神は、私たちを天の祝福で満たしてくださいます。私たちは神の国を受け継ぐ者とされています(14節)。神の選びはそこまで徹底しているのです。