2023年11月5日(日) 降誕前第8主日・聖徒の日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   385
主の祈り
交読詩編  詩編23篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  コリントの信徒への手紙一第13章1~13節
説  教  「最も大いなるものは愛」
賛  美   493
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 11月の最初の日曜日は行事暦で「聖徒の日」。西川口教会では、毎年この日に召天者記念礼拝をささげています。先に召された方々と私たちは、愛し、愛されたお互いです。聖書には「愛は神から出る」(ヨハネ一4:7)とあり、愛のあるところに神はおられます(ヨハネ一4:12)。本日は、神の愛を聖書の御言葉を通して、改めて受け取りたいと思います。
 今日、朗読した箇所の直前に、教会はキリストの体であり、一人ひとりはその部分とあります。人間の体も多くの部分があり、それぞれが異なる役割を持つように、教会もそれと同じで、一人ひとりが大切な部分で役割を担っています。ですから人と比べる必要はなく、神が一人ひとりにその役割を果たす力(賜物)も与えてくださいます。けれども、この手紙の宛先であるコリントの教会には自分を誇る人がいました。そこで、使徒パウロは、もっと大きな賜物を求めなさいと、教会に語りかけます。
 コリントの教会には、天使の言葉を語れる人たちがいたようです。「天使たちの異言を語ろうとも」(1節)とはそういう意味です。何と素晴らしく誇らしいことでしょう。けれども、「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(1節)、つまり愛がなければ、騒音であって、言葉は届かないのです。パウロは自分を抜きにしては語ってはいません。「わたしは」と言っています。私たちは天使の言葉は語りませんが、愛がなければ言葉が通じないことは、体験しているのではないでしょうか。
 さらに、知識があっても、完全な信仰があっても、全財産を献げても、殉教者のように死んでも、愛がなければすべては空しい、と言うのです(2~3節)。本当に驚きです。人の目には素晴らしいと思えることばかりですが、神は「そこに愛はありますか?」と問われるのです。
 愛とは何でしょう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。・・・」(4~7節)。先輩の牧師から聞いたお話です。中学生の頃、教会学校にある時から来なくなった友から、教会学校の先生に手紙が届いた。先生は中学生クラスの自分たちに彼の手紙を読んでくださった。こう書いてあった。「『私は忍耐強くない、私は情け深くない、私はねたむ、私は自慢する…』。だから自分は教会に行けない」という手紙だった。それを聞いたとき、自分も同じだと思った。先生は「だから、あなたがたはその罪をイエスさまにお詫びして悔い改めるのですよ!」と言われた。
 「愛」に「主イエス・キリスト」を入れて読んでみると、本当によく分かります。このキリストの愛をいただかなければ、この愛を生きることはできない私たちです。
 「愛は決して滅びない」(8節)。この神の愛、キリストの愛は、死を超えます。私たちも、先に神のみもとに召された方々と同じように、やがて死にます。教会は、葬りの業を行ってきました。それは本当に悲しいことです。しかし、私たちが愛し愛された、その愛は決して滅びないのです。死を超えるのです。
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節)。この言葉は希望であり、支えです。私たちは、今このとき、神に「はっきり知られている」。「なぜ、こんなことがあるのか」と思っている人もおられるかもしれません。神は全てをご存じで、愛を注いでくださる。やがてキリストが再び来られるそのときには、すべて知らせてくださる。この神の愛、キリストの愛をいただくので、私たちは死に立ち向かう勇気を与えられます。