2023年12月3日(日) 降誕前第4主日・アドベント第1主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   242 1節
主の祈り
交読詩編  詩編24篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  イザヤ書第11章1~9節
説  教  「平和の王が来られる日」
賛  美   425
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 本日からアドベント(待降節)に入ります。アドベントは「到来」という意味で、ラテン語の「アドベニーレ」に由来します。「アドベニーレ」とは「何かが起こって来る。ある事件が起こって来る。思いがけないことが自分の前に立ち現れてくる」という意味です。今まで、待ち望み備えることに重きを置いて、「アドベントを過ごそう」と語ってきたと思いますが、アドベントの意味からすると、私たちの状況に関わらず、やってくるのです。マタイによる福音書第25章1~13節の花婿のように、突然やってくるのです。もし来たら、私たちの世界は壊され、立ち行かなくなる、他人事ではなくなり、私たちは救われるのです。再臨の主が必ずおいでになります。再臨の主の到来に備え、心を整えるのがアドベントの期間です。心の扉をたたいておられる主イエスをお迎えすれば、私たちは新しくなります。
 主イエス・キリストは、十字架にかかり、復活し、天に昇られました。その後、聖霊が弟子たちに降り、それによって、教会は、旧約聖書に約束されていた救い主(キリスト)はイエスであったことを知りました。その救い主到来の約束の一つが、本日の聖書箇所のイザヤ書第11章です。
 この言葉を語った預言者イザヤの時代、南ユダ王国はダビデ王朝の治世が続いて、ヒゼキヤ王が現に治めていました。しかし、大国に対する態度などから、預言者イザヤは王制を批判して、この預言の言葉を語りました。「エッサイの株」の「株」とは切り株です。大木が切り倒されるように、ダビデ王朝が倒されるということです。しかし、倒されて終わりではなく、その切り株から「ひとつの芽が萌えいで」、つまりダビデの子孫から王が立てられる。否定の後に肯定があるのです。ダビデの父エッサイの名となっているのは、根源に立ち帰ることを示しています。ダビデの選びの出来事を見れば、彼は人々から王にふさわしい人だと認められたので選ばれたのではありませんでした。神が、羊を飼う少年であったダビデをお選びになったのです(サムエル上16章より)。
 ダビデの子孫から立てられる王はどのような人でしょうか。主の霊がとどまる人です。主から与えられた知恵と識別力により、思慮と勇気をもって実行します。「主を畏れ敬う」と、2節と3節で繰り返し語られています、人の思いではなく、神の思いに従って行動する人です。「目に見えるところによって裁きを行わず」、つまり、見た目で判断しません。「耳にするところによって弁護することはない」つまり、うわさ話などで判断しないで、人を偏り見ないのです。まことにそのような裁きを私たちは心から願います。見た目や、噂の判断がいかに多いことでしょう。平和の王は、神からの正義と公正で判断し、力ある者のためではなく、弱い人や貧しい人のために裁きをします。「その口の鞭をもって」「唇の勢いをもって」とは正しい言葉による裁きをすることであり、軍事力に頼って治めるのではありません。
 そのような平和の王が来られ、主なる神の真実と正義が行き渡ったとき、絶対的な平和が訪れます。それが6節から8節の出来事です。現実では考えられない、草食動物と肉食動物の共存、肉食動物が草をはむという特性の変化、小さい子供と毒蛇が共存できるという、超自然的な出来事です。これは絵空事ではありません。平和の王が到来し、大地が主を知る知識で満たされるときに実現する神の出来事です。平和の王の預言はイエスにおいて実現したという教会の信仰があります。しかし、イザヤ書第11章に書かれていないことがあります。平和の王は神の正義と公正で裁きますが、主イエスにおいて、神の裁きは、主イエスを十字架に上げられることによって果たされたからです。