2023年12月10日(日) 降誕前第3主日・アドベント第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   242(1~2節)
主の祈り
交読詩編  詩編61篇
祈  祷
日本基督教団信仰告白
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第4章1~7節
説  教  「御名を呼ぶ喜び」
賛  美   390
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声では聖餐部分をカット〕

説教要旨

 4節「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。これがクリスマスの出来事です。「時が満ちると」とは、神が定められた時に、です。「神は御子を…お遣わしになりました」とある通り、御子の到来は、神の派遣によるものでした。「女から(生まれた者)」とは、御子は、人としてお生まれになったということ。主イエスは完全な人間であられ、私たち人間と同じところに身を置いてくださいました。「律法の下に生まれた者」とは、律法の支配下にあるユダヤ人としてお生まれになったということです。主イエスは、神の選びの民であるイスラエルに連なるお方です。創世記第12章に、神がアブラハムの子孫であるイスラエルを通して、全人類へ祝福をもたらすとの約束がありますが(創世記12:2-3)、教会は、キリストによってこの約束が実現されたと信じています。
 その祝福とは、5節にある通り私たちを神の子とすることです。そのために救い主が来てくださったのです。「贖い出して」、つまり、主イエスが十字架にわたしたちの身代わりとして死んで、贖いとなられたので、私たちは罪を赦され、神の子とされました。まったく一方的な神の恵みです。主イエスは神の子であられますが、私たちは生まれながらの罪人です。ガラテヤの信徒への手紙の表現を使えば、私たちは律法の呪いのもとにあった存在でした(ガラテヤ3:13参照)。例えると、主イエスは実子、私たちは養子のようにして、神の子とされました。人間社会の制度と同じように、養子でも、特権と身分においては実子と変わりがないのです。私たちは、神の子としてキリストと同じものを与えられるのです。それは、永遠の命を与えられることです。
 ではなぜ、私たちが神の子であると言えるのでしょうか。それは6節「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とある通り、聖霊を与えられているからです。主イエスは、神を「アッバ」(アラム語で「お父ちゃん」)と呼ぶことを教えてくださいました。はばかることなく、直接に神を呼ぶことが許されています。これもまったく一方的な大きな恵みです。ここに、エゼキエル書に記された希望の約束が実現しました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。
 パウロは、まことに大きな喜びをもってこの6節も書いたのではないでしょうか。この手紙は、福音から逸れて行こうとしているガラテヤの教会を案じて、書かれています。第4章10節に「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」とある通り、教会に過去の風習に戻って行こうとしている人々がいました。まことの神以外のものに頼って生きようとする点では、現代の日本でも同様ではないでしょうか。お金があれば何でもできるかのような価値観もあります。それは「諸霊の下」(3節・9節)にある生き方なのです。しかし、救われた者は諸霊や律法の下ではなく、キリストの救いを信じて御子の霊の支配下に移り、自由に生きることができるようにされたのです。だから、その恵みから逸れてはいけない! とパウロは語ります。
 7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。「神によって立てられた」とは神の恵みによるということ。自由にされたから、試練や苦しみがなくなるかというと、そんなことはありません。「アッバ、父よ、助けてください!」と神に叫ぶことが許されているのです。日々、「父よ!」と叫んで生きるのです。