2023年12月31日(日) 降誕節第1主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   260
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   コリントの信徒への手紙一第12章27節
説  教  「教会はキリストの体」
賛  美   419
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 本日は、日本基督教団信仰告白の前半部分の第4段落に入ります。「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣(の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」。この段落は、教会についての信仰告白です。教会とは何か。教会とは何をするのかが示されています。「教会は…集い」です。教会は建物ではなく(建物は教会堂)、信仰の共同体です。教会は、神の恵みによって召された者たちの群れです。これは、教団信仰告白の第3段落の「神は恵みをもて我らを選び…」が前提になっています。神の恵みの選びによって集められた共同体です。教会は人間の意志で始まったのではありません。今、私たちがこうして共に礼拝していることも、神の恵みのご意志によるものです。
 「恵みにより召されたる者の集ひ」については、同じコリントの信徒への手紙一第1章の御言葉に耳を傾けたいと思います。当時は奴隷制で、コリントの町では、奴隷を持つことのできる自由な立場の人より、奴隷のほうが人数が多かったのです。ですから、使徒パウロたちの伝道によって生まれたコリントの町の教会には、自由な身分の人もいれば、奴隷の人もいました。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。…また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(コリント一1:26、28)のパウロの言葉は本当にその通りでした。そして、そうはっきり言わなければならなかった事情がありました。教会の中に、自分を誇って他の人を蔑む人がいたり、仲間割れや分派があったりしたからでした。そこで使徒パウロは、あなたがた一人ひとりがどこから救い出されたのかを思い起こしなさい、と語ったのです。ただ神の恵みの選びにより、キリストを信じて救われたのです。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(コリント一1:30)。神が、わたしたちを主イエスに結んでくださいました。キリストだけが、私たちの義であり、聖としてくださり、贖いとなってくださる唯一の主です。この救いの原点に立ち帰りなさい、というのです。
  「教会は主キリストの体」とは聖書に基づいています。第12章12節以下で、人の体のイメージが豊かに語られています。子供でも分かります。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。…頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(14~15、21節)。だれも、本当にそうだと思うでしょう。しかし、ここでもこのように丁寧に語らなければならなかったコリント教会の事情がありました。「お前は要らない」と言うこと自体、人の体の場合にはあり得ないのに、キリストの体であるはずの教会で、そのようなことが起こっていました。決して他人事ではありません。昔も今も、教会に起こりうることです。大切なのは、神の言葉によって、「教会とは何か」に立ち帰ることです。
  「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(26~27節)。本当に素晴らしい御言葉です。信仰によって、私たちは自分たちが教会というキリストの体の一部であり、神の恵みによって召された自分であることを知るのです。