2024年1月7日(日) 降誕節第2主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   271
主の祈り
交読詩編  詩編16篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   使徒言行録第23章1~11節
説  教  「復活の希望」
賛  美   290
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(11節)。主イエスが、兵営の中にいる使徒パウロを訪れて、力強く語ってくださいました。私たちが礼拝をささげるのは、この生ける神の言葉を聞くためです。私たちに先立って神は祝福を備えて、祝福を注ぎ、ご自分の命で満たそうと待っていてくださいます。
 本日の聖書箇所の少し前の第22章から見ていきます。使徒パウロはエルサレムにやってきました。思いがけず騒動が起こり、パウロは巻き込まれましたが、ローマの千人隊長の保護と許しの中で、同胞であるユダヤ人に自分の回心と召命の証しをしました(使徒22:1~21)。パウロの言葉を聞いてユダヤ人は怒り、「生かしてはおけない」(使徒22:22)とまで言いました。教会にとっては、牧師が逮捕されたようなものであり、同胞からの迫害もあるのですから、何と厳しい試練でしょうか。しかし、使徒言行録は途方に暮れていません。神のご支配を信じて書かれています。
 再び騒動になってしまったので、千人隊長はパウロを保護し、むち打ちの拷問で取り調べようとしました。まさに鞭打たれそうになった時、パウロはそばにいた百人隊長に「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」と言いました(使徒22:25)。百人隊長がすぐに千人隊長を呼びました。千人隊長は、パウロが生まれながらのローマ市民であることを確認しました。ローマ市民を拷問で取り調べることは許されません。パウロはそれを分かっていました。時に、キリスト者は、国家の権力と秩序を用いることがあります。鞭打ちの拷問は死に至ることもあります。パウロは生きてローマに宣教に行くために、自分のローマ市民権を行使しました。考えてみれば、パウロのローマ市民権は、神の恵みの賜物といえるでしょう。パウロの努力でもなく、千人隊長のようにお金で得たのでもなく、生まれながらに与えられたものだったからです(使徒22:28)。
 パウロを鞭打ちで取り調べようとした千人隊長の考えは挫かれました。そこで千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人から訴えられているのかを知りたいと思い、自分の権力を使ってユダヤの最高法院の議員たちを招集しました。これも、パウロの思いや考えから出たことではありません。しかし結果的にパウロが最高法院の議員たちに、「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6節)と語ったので、最高法院は分裂し、収拾がつかなくなり、パウロはローマの兵士たちによって救い出され、保護されました。
「わたしは生まれながらのファリサイ派です」とパウロが言ったのには、パウロ自身の思いが背景にあります。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては…律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」(コリント一9:20)。「死者が復活するという望みを抱いている」との発言は、キリストの復活の出来事が背景にあります。パウロは聴き手が誰であるかをわきまえて、発言をしています。
 復活の主イエス・キリストが兵営にいるパウロを訪れて、慰めと励ましに満ちた言葉を語ってくださいました。パウロはどんなに勇気づけられ、自分のローマ行きを確信することができたでしょうか。ローマの市民権を行使して、最終的には皇帝に上訴できるという権利を行使して、パウロはローマ行きを果たします。一つ一つの出来事の背後に神の御支配を見ます。